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短編小説「音楽の小部屋」

 音楽の都はウィーン。音楽の小部屋は村上ハイムの202号室。すなわち俺の部屋。
 朝起きて真っ先に行うことはスマートスピーカーでプレスリーの曲をかけることだ。俺に言わせてみれば、プレスリーで始まらない朝など朝ではない。この頃は全くもってアルバムの進行具合と身支度のタイミングが一致している。顔を洗って髪を梳かす。鏡に映った自分の姿と対面する。毛先にパーマが掛けられた茶髪の下に端正な輪郭がのぞき、目鼻立ちには愛嬌がある。ここに青いフレームの眼鏡をかける。我ながら中々イケている顔だと思う。何でモテないのか不思議でならない。コメントには、ときどき好意を仄めかすようなものが混じっているが。朝食はシリアルで、すぐに食べ終わる。
 スマートスピーカーが自動でミュージシャンを選んでくれるので、何もせず食後くつろいでいたら、中学生の頃好きだった女の子が読んでいた青年マンガが目に入ったので、手に取ってなんとなくページをめくるうち、ハマりこんでしまった。俺はあの頃の高揚感と憧れと希望を再び堪能しようとした。それなのに、心に触れてくるのはあの思い出とは似て非なる、今作り上げた模倣であった。昔と同じものを探しても、一つも見つからない。どこまで降りていっても偽物で、本物の感情に浸ることは叶わなかった。
 まずい。時間が思ったより経過している。貴重な休日だというのに。土日は絶対に休むと決めてあって無駄にしたくないのだ。二か月前まで俺は映画館で半券をちぎる仕事をしていた。ちぎってちぎって、投げてはダメで、ちぎってちぎってちぎってちぎってちぎって。もうちぎりたくないと思ったが、これが労働だと自分に言い聞かせて、来る日も来る日もちぎり続けていた。しかし突然大陸から訳の分からないウイルスが持ち込まれて大混乱になり、影響がドミノ倒しのごとく及んで、結果としてあの映画館は閉館になってしまったのだ。仕方がないから、今は平日になるべく多く日雇いのバイトを入れて食いつないでいる。それらは半券をちぎる仕事よりよっぽどつらい。他に手がないから仕方ないが。配信の収益では家賃の半分くらいにしかならないのだから。
 そう。俺はほんの少しだけ人気がある動画配信主だ。年単位で活動して毎日投稿している。動画には広告もついている。どこのプラットフォームかというと、一番有名なやつになるかな? 以前は「場末映画館バイトの内緒話」というチャンネルで、職場で起きる珍事件や面白い客のことを、バレない程度に脚色して放送していた。だがクビになって以前のスタイルで放送できなくなってしまい、「シゲちゃんネル」と改め、今度は映画館だけではなくマルチな面白ネタを片っ端から集めて放送している。余談だが、クビになったことを報告した生放送では同情の投げ銭が結構来て、心に沁みた。そんなときもあったが、目下の課題として再生回数がある。今月はもう下旬なのに先月の最高再生回数をまだ超えられていない。休みの日だからこそ一気に再生回数が伸びて登録者も増えるようなネタを披露したい。俺はネタを考えることにした。
 曲を変えよう。俺はエミネムを選んだ。しばらくラップのリズムに身体を慣らして、気分を上げる。何をするにもリズムが必要だ。音楽が始まらなければ、何も始まらない。そうだろう?
 メロディーでモチベーションを刺激しながら脳みそをシェイクして、想像を張り巡らせていたそのとき、隣の部屋から声が聞こえた。誰かと電話しているようだ。ときどき笑い声が混じる。気にしないで音楽に集中しようとしたが、意識から取り除こうとすればするほど消えない。声は聞こえるが、話の内容までは分からない。もう少しで聞こえてしまいそうなスレスレのところを維持している。そうなってくると想像せざるを得ないのが、逆の場合だ。すなわち俺は普段配信や録音をこの部屋で行っていて、当然テンションを上げて話すが、それがみんな筒抜けなのではないかと大変不安になってきたのだ。途端に恥ずかしくいたたまれない気持ちになって、隣の声が脅威になる。苛まれて居心地が悪い。外に出ることにした。財布をポケットに入れ、スマホを胸のポケットに挿し、耳にイヤホンをつけ、マスクをして、ニューヨークヤンキースのキャップを被って、後はもう逃げ出すように急いで飛び出した。

 もうかなり暖かい。上着を着てこないで正解だった。イヤホンから聞こえてきたのは茶色の小瓶だった。ほう、ランダム再生という名のDJの気分はそれか、次は何を選ぶんだい? と観察しながらこころなしか急いでいた。しばらく早歩きしていると、道の前に家族連れがいた。歌を歌いながら踊るように進む小さい女の子の歩調に合わせて歩いているからとても遅く、このままでは追いついてしまうので早めに追い越すことにした。走って追い越したが、ただ追い越したと思われるのがきまり悪く、バス停に走って向かっているふりをして、角を曲がるまで走り続けた。
 そして行き掛かり上仕方なくバスに乗った。
 駅前でバスを降りる。適当に歩いてみることにした。踏切の警告音がひっきりなしに響いている。明らかに元々はコンビニではなかっただろう造りの建物にコンビニが入っている。こんな台形みたいな敷地にコンビニを作ろうとは思わないものだ。何の店がダメになってしまったのだろうか。その横には「早い・安い・キレイ」という日焼けしたシールが貼られたガラス戸があって、これは写真屋だろう。袋に入った使い切りカメラがラックに掛けて入口の横で売られている。今時使い切りカメラを買ってここで現像するような者があるのだろうか。向かいの宮殿風の建物の二階では青い炎に見せかけた布が下から出てくる風で揺れている。この派手な感じはどう見てもパチンコ屋だ。スクランブル交差点を渡って路地に入ると、大学名と人数が書いてある紙がこれでもかと大量に窓に貼られているビルがあって、間違いなく塾だ。どれもいまいちネタになりそうにない。どうするか考えていると、空腹を覚えた。
 会計を済ませてトレーに乗せた商品を持って二階のスペースへ入った。ファーストフード店の二階には高校生のグループがいくつも陣取っていた。自分の学生時代の幼いはしゃぎ方を連想してしまい面映い。しかし自分に構っている暇はない。ファーストフード店にはお約束があるのだ。ここには妙に世の中の真理をついた発言をする女子高生がいるはずだ。もしいたらネタにできるかもしれないと期待した。しかし近くにいた女子高生の集団の会話に真理など一つもなく、ひたすら何かのキャラクターだかアイドルだかのグッズの話で盛り上がっていた。新しい推しのグッズを手に入れるために昔のグッズを売るんだとか梱包の仕方がどうとか、あまりにも露骨な移り気に他人事ながら泣いてしまうよ、俺は。とにかくここでも収穫はなし。
 店を出て、人通りが多いところから離れた静かな通りを歩いたが、ネタになりそうなものは転がっていなかった。そのうち住宅街に入り込んだ。こういうところで、あるかどうか分からないものを探しているうちは決して見つからない。そういうものだ。俺は方向を変えた。 
 しばらくして、小学校の近くの、丘のふもとにある公園に入った。誰もいない。葉桜が恣に生い茂っている。足元にはツツジが長方形の形に整えられて植えられていて、花の香りが鼻に触れてくる。遊具を見ると、どうにもみんな揃いも揃って古くさく、色褪せ、錆びついている。夜見たらホラーでしかないだろう。しかも地面が湿っているから余計に陰気だ。これはネタになり得る。だがここへきて少しだけ感傷が生まれて、放送内容の検討が止まってしまった。ふと、耳にイヤホンが挿さっていないのに気付いた。食事のときに外してそのままだった。これでは気分が下がるわけだ。迷わずお決まりの手順を踏んで、曲を掛けた。始まったのは、Bad Dayだった。俺の足はまた動き出した。公園の前の駄菓子屋でフーセンガムを買った。噛んだら驚くほどうまくて、思わず貪欲に舌でむさぼった。するとすぐに味がしなくなった。包み紙に吐き出す。俺は歩き続けて上の公園に行った。ここの公園は丘の上と下に分かれているんだ。上の公園は遊具が少なくて木が多い。やはり誰もいなかった。気がつけば日没間近だった。高いところから夕陽を眺めた。こんなにすぐ日が暮れるのだから、人間もさっさと老いるんだろう。肌寒くなった。春の暖かさはすぐに冷める。

 俺は閉店間際の写真屋へ駈け込んで使い切りカメラを買った。フォトグラファーになろうと思う。目に入る景色をみんな撮って写真に閉じ込めるんだ。半券をちぎるようにずっとずっと撮り続けられたら良いが。今からどれくらいできるだろうか。嗚呼、最初からこうするべきだったんだがなあ。


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