短編小説「コント:利益」

 自分の悩みが人類共通の悩みだったらいいのになあ。どれくらい心軽くいられるだろうか。しかし現実は違う。俺の悩みは俺だけの悩みだ。夜七時の列車には勤め人ばかりいる。無言の空間に漂う倦怠感と鬱陶しさ。ほとんどが眠っているか、スマートフォンをいじっているかしている。眠るのは疲労困憊するほど目一杯働くことを求められたからだろう。スマートフォンをいじるのはまだ仕事があるからだろう。俺はどちらでもない。確かに疲れているが、仕事では重要なことを任されないし、帰りの電車に持ち込むタスクもない。何も期待されていないのだ。俺の眼鏡レンズに映る、スーツを着た全ての人が俺より優秀なのだろうと感じる。だから俺の悩みは、大概の人の抱えるものではない。営業成績が晩年最下位だなんて。
 自宅の最寄り駅で降りて、市街地へ出ると路地に占い師が居を構えている。生まれた日付と干支で占うらしい。いつものことであるが客は全然いない。濃い化粧を隠すように紫色の頭巾を被って俯き、身動きせずに座っている。俺は昔からスピリチュアルなことに関心があって、初詣に行けば必ずおみくじを引くし、家の水回りの掃除は欠かしたことがない。一対一で占いをしてもらったことはないが、見かける度に心惹かれる。あのおばあさんにはいつか占ってもらおう。ただし景気が良いときだ。今日はまだそのときではないので通りすぎた。
 帰宅して荷物を置き、着替えたら、サボテンの様子を見て水をやるのが日課だ。うちにあるのは白い綿毛が丸い茎を覆っている白星という種類で、とても愛嬌がある。一人きりで暮らしているとどうしても気持ちが荒んでくるから、命あるものと生活しようと考え、数年前から育てている。このサボテンを見れば疲れが吹き飛ぶなんてことは決してないが、仕事でもなく生活上の必要から行うことでもない作業をするのは心が緩む。また、ひととき苦悩を忘れられる。俺の生活で唯一余裕を感じるイベントだ。霧吹きで水をかけてやって、土の状態を確認する。水滴は水玉になって綿毛の至る所についている。茎は相変わらず綺麗な緑色だ。湿った土の匂いがする。悪い予兆はなさそうだ。

 俺の仕事は、オフィス向けの装飾品の定期サービスを売り込むことだ。主に絵や写真を扱っている。他の社員が勧めると契約してもらえるのにも関わらず、なぜ俺が売り込むとほとんど断られてしまうのか分からない。学生のことはかなり成績が良かったから余計に悔しく感じる。見える世界が真逆になってしまったのだ。
 様々な経験を思い起こした結果、会話応対の仕方、いわゆるコミュニケーションの能力に問題があると考えた俺は、コミュニケーションスキルの磨き方を勉強することにした。日曜日に書店で探したらたくさんそのような本が売られていた。棚の中でも目線と同じ位置の一番目立つところに置かれていた本を手に取ると、DVDがついていて分かりやすく解説していると表紙に記されていて、なおかつ好みのデザインだったので購入を決めた。
 家に帰ってからさっそく開封して見てみた。パターン別に簡単なアニメーションで解説されていて、一気に全部視聴した。笑顔のときは口だけ笑って目が笑っていない場合があるから目も細めろ、顔の半分で笑うと印象が悪いから鏡を見て確かめろ、口調は穏やかに、話しながら身振り手振りを交えろ、相手の言ったことを復唱しろ、などの有効そうなアドバイスがたくさん挙がっていた。アニメ映像を見ながらメモを取り、それを見ながら一人芝居で会話の練習をした。昔から勉強は得意じゃないかと自分に言い聞かせながら長時間めげずに繰り返した。一気にしゃべりすぎて頬の内側が痛くなった。だがある時から感覚が変わって、学んだことが自然とできるようになった気がした。身体が覚えたのではないかと思う。

 実践したら大いに手ごたえがあった。DVDの通りの対応をしたら本当に反応が違ったように感じられたし、順調に進んで何件か契約が取れた。これまではこちらの言葉が相手に届かないまま足元に落っこちたり滑って宙へ消えていったりする感覚だったが、今では真っすぐ相手の胸の中へ届いて受け入れられているような感じがする。俺の意識があちらの注目に繋がっているような感触もある。素晴らしい成果だ。この分なら今期の成績は確実に半分より上の順位に行くだろう。嬉しくてたまらない。気持ちが表に出ていたのか、何人かの同僚から「ずいぶん機嫌がいいな」「最近身体の調子が良さそうじゃないか」と言われた。

 快調なまま、更新された営業成績が貼り出される日がやってきた。家を出るときから気が急いて、まだ会社に着かないのかともどかしく感じた。エレベーターを降りて、ほとんど駆け込むようにオフィスに到着した。息をつく間もなく、掲示板の前に集まっている同僚たちの頭の隙間から表を眺めた。右から順番に名前を探す。……どうもおかしい。全然見つからない。ここでもない、ここでもないと一つ一つ失望しながら左に視線をずらしていった。やっと見つけた俺の名前は、あろうことか昨日までと同じように一番左に書かれている。伸びているはずだった棒グラフは一段と短い。

 涙も出ない。帰り道、石でも蹴とばしてやりたかったが見つからない。探そうかと思ったが、爪先の疲れが無駄な動作をためらわせた。聞いたことを基にまとめると、つまりはこうだ。俺が一生懸命頑張ったのは確かだが、どうやら他の社員たちも一様に努力した上に商品の需要が上がったそうで、全体的に売り上げが伸びたらしい。相対的に俺の成績は悪く、最下位となったのである。何てことだろう。自己投資までしてこんなに努力して、結局変わらないなら努力するだけ無駄じゃないか? あの期待はきれいに裏切られた。昨日までの興奮が空しくてたまらない。仕事が心底嫌になり、モチベーションがすっかり下がってしまった。早く家に帰ってしまいたいし、明日からは会社へ行きたくない。優秀な社員があんなにいるのだから、俺なんていなくても構わないだろう。
 列車内では相変わらずスーツを着た人々が眠っていたりスマートフォンをいじっていたりしていて、ときにはノートPCに向かっている人すらいる。耳を澄ますとタイピングの音が小さく鳴り続けている。どうして俺は人と同じだけ仕事ができないのだろうか。どうして他の人間が当たり前に享受している幸せが、俺にだけ用意されなかったのだろうか。また、幻と化す希望なら持たされない方がマシなのに、鼻先に触れかけるくらい近づけられたのはどういう気まぐれなのだろう。
 頭の中に疑問の数々が渦巻くのに気づき、辟易とした。一体、いつまでこんな風に一喜一憂しなければならないんだ。

 駅を出ると、またあの占い師が目に入った。俺は足を止めて決意した。あんただけでも救われろ、というわけで俺は初めて占い師に三十分のコースを依頼した。客用の椅子が用意された。低くて身体に合わない折りたたみ椅子に深く腰掛け、脚を座席の下に伸ばした。途端にお香の匂いが漂い始めた。
「今日はどんなことをお調べいたしましょうか?」
「仕事で」
「お仕事ですね。承知いたしました」
 占い師の差し出した紙に鉛筆で生年月日を書いた。
「もう全然できないんですよ。何でだか知らないけど、他はみんな優秀なのに俺だけ」
「相性がありますからね。失礼ですが、今はどのようなお仕事をなさっているのですか?」
「営業です。でもからっきしで。何でだろってくらい。嫌がらせされてんじゃないかってくらい。実際そうなのかもしれません」
「ご依頼者様の星に、対人運がよくない相が出ております。特に我の強い人の前に出ると、ご自身の力が発揮できなくなってしまう」
「我の強いやつしか周りにいませんよ」
 なんだかいくらでも口が回る。何もかもを話してしまいたい気分になった。
「高田も馬場も押しの強さだけで契約取っているに違いないんですよ。赤羽なんかはもう凄んで無理やりハンコ押させてんじゃないかってくらいで。高円寺の奴は俺の悪口ネタにしてんじゃないですかね。ちげえねえや。恵比寿はあんまり頭が良くないから、あいつは同情誘ってんでしょうね」
「同僚の方々にお怒りの気持ちがおありでいらっしゃるんですね」
「当たり前ですよ。あんな連中、全員一回思いっ切り怒られるべきなんですよ」
 占い師の聞き方がうまくて、どんどんしゃべってしまった。しゃべるうちに興奮して散々愚痴が出た。喉から出ていった大げさな言葉は手ごたえもなく夜の闇に溶けていった。終わってから少しだけ後悔した。悪かったな、みんな。本当は君たちのことがそんなに嫌いなわけではないよ。
 ただ胸につかえていたものが取れたようなすっきりした気持ちになったことは確かだ。体が軽くなった。今までかなりストレスが溜まっていたのだろう。解放されて初めて自分を苛んでいたものの重みに気づいた。

 どうしたことだろう。翌日会社に行くと、やけにみんなノリが悪かった。「お疲れ様」と声を掛けても「お、おう」と戸惑ったように返事されて終わりで、足早に去られてしまったり、目が合った途端顔をしかめられたりした。普段比較的タメ口が多い課長は終始よそよそしい敬語しか使ってくれなかった。まさか占い師の前で愚痴を言ったことが課内の人間にバレたわけではないだろうに。気にしないふりをしながら、しかし内心必死に周りの人たちから親しみの表現を引き出そうとしたが、全部悉く失敗した。嫌われたのかもしれない。俺はこれから営業成績だけではなくて、職場の人間関係にまで気を揉んで生きていかなければならないのだろうか? 暗澹たる気分になった。

 昨日よりも更に肩を落として帰路に就いた。駅前の占い師はいなくなって影も形もない。姿が消えた一角を前にして、俺は苦々しい顔を更に歪めた。

 帰宅して、着替えながら思わず声を上げた。サボテンの様子がおかしい。丸い茎の輪郭が崩れている。眼鏡を掛けて近寄って観察してみると、白い綿毛の間から、筆の先みたいな薄茶色のつぼみが顔を出していた。俺はすっかり圧倒されて、目の前の希望を、俺の生活の唯一の光を、ただひたすらに恋しく眺め続けた。


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