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『常識』と『普通』の罠+社会とは?(前編)

そろそろ僕がバーで、たまーにお客様に
お伝えしていることを、ここに綴っていこうと思います。


はじめに…

「お前は、常識はなさすぎる」
と言われて落ち込んでいる人や

(私は、他の人が
    普通にできることすらできない)

って苦しんでいる人をたまに見かけます。


でも僕は思うんです。

「その常識と普通って使い方、あってる?」
って。


まず、大前提の話をします。


『常識』や『普通』は
あなたを苦しめるために
存在しているわけではありません。


(そりゃそう)

って話なのですが、
こういう確認が意外と大事だったりします。

でもあなたが仮に『常識』とか『普通』って
言葉に苦しんでいるのだとしたら


その苦しみは、「疎外感」とか
「劣等感」に置き換えられると思います。


「みんなが知っていることを知らない」
「みんなができることができない」

ホントにそうなのでしょうか?


ここでは、
『常識』と『普通』の付き合い方を
書いていこうと思います。


そもそも『常識』『普通』って、なに?


色んな定義の仕方があるとは思いますが

ここは、村井の研究結果で作られた
村井の言語で共有させてください。


そもそも『常識』『普通』とは…?

『常識』は、社会の中で形成された、
多くの人が知っていそうな知識。

『普通』は、個人の主観における価値基準。


つまり『常識』は
形成された社会や時代によって
変わります。

つまり『普通』は
あなたが変われば、変わります。


こうやって説明されると
ぜんぜん違う感じがするのに

どうして同じように
使われている気がするのでしょう?


それは『常識』も個人の主観で
選ばれていることが
多いからだと思っています。


でも確かに『常識』は、ある。
自分で決めてなくても、ある。


それは、あえて言うなら
「社会」が決めてます。


んじゃ今度は
「社会ってなんだよ?」

って話になるわけです。


『社会』ってなに?

ちなみにこれは、僕が
『センスとはなにか?』(別ページ参照)

の研究をしている途中で
生み出された定義なのですが
『社会』とは


「3人以上の関係性、
 コミュニティを表す言葉」

だと思っています。


混乱をさけるために先に書いとくと

実は、2人からでも社会とも言える
と思っているのですが、

2人の場合、その関係性を
「家族」「友達」「恋人」など
別の言葉で言い表すことが出来ちゃうし

2人だとそのコミュニティの中で
意見が割れても、常に同率なので

社会にする必要がないと思ったため
3人からを『社会』にしました。


そしてここが大事なのですが
この定義に照らし合わせると

多くの人が現実世界でよく使う
『社会』という言葉は省略語
ということになるのです。


だって3人以上のコミュニティって
様々に沢山あります。

「現代社会」「村社会」「家族社会」
なにかしらの区分があるのです。


では、あなたが普段省略して使っている
社会って、何の社会ですか?

「現代社会」の中の「日本社会」
って答える人も
結構いそうな気がしますが

それってつまり
「社会」が決めている『常識』って

「とても限定的なもの」で、かつ
「時代によって変化するもの」と
証明していることになっているのです。


『常識』は「常」じゃない

これってもう
言葉の罠としか思えないんですが

「常」って漢字は
「ずっと変わんない」「永遠に」
みたいな意味があるから
誤解されやすいんだと思うんです。


だって、常識ってすぐ変わるんですから。


フェミニストって20年前
男性に使う誉め言葉だったりした時も
ありますよ。

長い時間働くことが美徳って時代も
ありました。

例をあげたらきりがないけど
つまりそういうことです。


常識なんてあやふやなもんに
騙されちゃいけません。


じゃあ『常識』の存在理由って?

社会は効率重視


それは、社会の中で行動や会話をするときに
楽だからです。

大前提、なんとなく
「こういう知識はみんな持ってるよね?」
「こういうことはできるよね?」

って共通理解があるもとで
3人以上が行動や会話をするほうが
省略できることが多いはずです。


なにかを3人以上でするときに
「こっちには説明不要だけど
 こっちには説明する必要があって」
だと片方に負担がかかります。


話をちょっと戻すと
2人だったら常識いらない
とも言えます。

(この辺は、のちのち
 『恋愛論』でちゃんと語る予定です)


なので『常識』って「社会」の中で
便宜的に使われている言葉なのです。


『常識』の落とし穴

そして、便宜的なものには
必ず落とし穴があります。

それは
「例外が含まれている」
ということです。

もっと言えば、
社会が大きければ大きいほど
例外も多くなるってことです。


なのに個人間の問題でも
多くの人が常識に照らし合わせて

物事を解決しようとしたり
改善策を生み出そうとする。


大体うまくいきません。

だってそれは
「個人の問題」で
「社会の問題じゃない」からです。


結局『常識』は誰が決めてるの?

冒頭のほうで
『常識』を決めてるのは「社会」
って書きました。

でも
社会という具体的な人は、いません。
社会は喋らないし、喋れない。


じゃあ具体的には、誰なんでしょう?

社会の代わりに社会を代表して
喋っている人たちがいます。

それは多数決による代表者だったり
何かしらの力を持っている人だったり
そういう人たちです。

もしくは社会を代弁して語る
マスメディアの方たちである
場合もあります。


それを僕たちは聞いて、知って
僕たちの過去の常識と照らし合わせて

それが自分の新しい常識になるか
判断を繰り返しているのです。


結果、自分で決めているとも言えますね。


これが冒頭のほうでも書いた
常識と普通が同じように
使われていることが多い理由です。


というわけで、後編は
『普通』の話とまとめをやります。

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