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家庭料理という虚像

家庭料理って何なのか割とずっと考えてきた。誰しもの中にぼんやりとイメージがあり、それらしい献立をありがたく感じたり、自ら再現できるよう努力したりギャップに違和感を抱いたりする。

絡まったイメージを解きほぐすと

2020年1月発行、コロナ直前までの家庭料理史を読み解く

それみんな、どうやって作りあげてきたの? 『家庭料理という戦場』を読んでようやく理解したのは「家庭料理とは虚像」である。

「本来の家庭料理」や「おふくろの味」なるものが村共同体における「村の味」と核家族における「我が家の味」が重ねあわせられることで生み出されたイメージであるならば、それは歴史のどこにも正確な居場所を持たない。

『家庭料理という戦場 暮らしはデザインできるか?』P.102〜103

家庭料理戦線 昭和to平成

本書による昭和〜平成の家庭料理の変遷(ざっくり)。
「手作りが愛情だよね」から出発する家庭料理像、だけどその「手作り」の概念自体が突っ込み所満載というのは意外と認識できていなかった部分で面白い。なんでも食材が揃うスーパーと簡便な調味料が出てきたからこそ、家庭のキッチンでちょちょっと一手間加えることが狭義の「手作り」料理になる。食材を狩ったり季節の素材を加工して保存、という根源的な手仕事のイメージは、家庭料理前夜の「村の味」の残像なのだった。

◎:書籍内で取り上げられる各時代の代表的料理家

モダン期(1950〜1960年代)
◎土井勝、江上トミ、飯田深雪

・食の簡易化 味の素、コンソメ、インスタントラーメン登場
・ゼロからの手作りではなく、既製品ありきで表現される「我が家の味」。ただしインスタントをそのまま食卓に出すことはタブー。何かしらひと手間を加えて我が家の味にすること、その作業が核家族の共同体を作る

ポストモダン期(1980〜1990年代)
◎小林カツ代、栗原はるみ

・働く女性にも支持された「おいしい時短」と「ファミレスの味」
・ただしそれはモダン期に作られたTHE家庭料理の像、一汁三菜の型をプロトタイプとして、いかに楽に失敗なくそれに近づけるかの戦い

ノンモダン期(2000〜2010年代)
◎土井善晴 and more、クックパッド
・インターネット時代、レシピブログやクックパッドによる一般主婦のレシピのデータベース化と、ランキングで選ぶことによる味の標準化
・「我が家の味」を探求しなくとも、情報と商品を選び取る消費行動がそのまま共同体作りになる。ママ友とコストコでシェア、クックドゥ(完成されたプリセット調味料)で家族みんなが満足する味

(モダン期前夜)
「我が家の味」はまだ無い。地域の味、村の味。手に入る食材での質素なケの食事とハレの行事食。家ごとの差異は出せないし、出す必要がない。

虚像はどのようにして結ばれる?

つまりそれぞれが持つ家庭料理像は、無意識下まで含めた複数の価値観やイメージが重ね合わさり生成される。きっとこういうことではないか。

【世代が共有する家庭料理像】 × 【実家の食卓の実像】

実家の食卓は、親世代の持つ家庭料理観 × 親が子供だった頃の食卓のコラージュになっているはず。生家の親がどの価値観で料理をやっていたか、あるいはやっていなかったか。こうしてグラデーションが重なった先で時代は令和に入りコロナ禍の大転換も経て「愛情=手作り」のモダン家庭料理像は、いよいよ無効化されてきた実感がある(30代前半一個人の感覚)。この現在地は、各自の呪いや世間の圧力と戦ってきた生活者たちの抵抗と、メディアを通して家庭料理観のアップデートを訴え続けてきたポストモダン期以降の料理家たちの活動の集積で、ようやくここまで拓けてきた獣道なのだろう。感謝してバトンを受け取り、ありがたく踏み固めていく。

ちなみに自分は、日々のご飯はちゃんと食べさせてもらってきたけれど、祖母も母も特に料理好きという熱量はなく手作り信仰もなかった。その結果、自分には「こういうのが家庭料理だよね」の実像(=呪縛)がない。味の伝承もなかったが、これはこれでフラットでいいなと思っている。

なにが失われたっていうのか

クックパッド以降、冷蔵庫にある食材を検索すれば刹那的な最適解にたどり着ける=こなす家事になっていったとの指摘が本書にはある。今の自分はなにが食べたいか、それはどうやったらイチから作れるのか、そもそもおいしさの構成要素ってなにか、イメージから逆算して作り上げる筋肉は昔の家庭料理人と比べたら落ちているのだろう。定評のあるレシピの手順に沿ってゴールに辿り着き、みんなが好む味に満足する。その逆でゴールの像を先に描き、そこから遡って食べたい味に近づけていく主体的なプロセス。

そのスキルが今の時代に料理をする全員に必要か?と考えると、全然ない。余裕があってやりたい人がやればいい。自分は料理というものの根源的なルールにめちゃくちゃ興味があるので仕事にしながら楽しく鍛えている。

多種多様においしい食べ物がいつでも入手できるこの時代に、必要なのはその食事の目的を明確にすることだけだと私は思う。30分以内にそこそこおいしくて野菜が摂れる自炊を達成するのか、休日に鶏ガラから出汁を取ってみるプロセスそのものを味わうのか。

「家庭料理」に含まれる他者への愛情のニュアンスを取り除いていくと「自炊」になると考える。家族のためのケア労働から自分主体の生活スキルへ。誰かのために頑張れる、というのは動機づけの一種であってガソリンではないから愛情だけで駆動しつづけたら多分燃え尽きる。虚像を映していた眼鏡をそっと外した後のキッチンで、自分との対話という次の静かな戦いが始まる。

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