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【連続小説】『2025クライシスの向こう側』8話

連続小説 on note『2025クライシスの向こう側』
第1部 愛尊と楓麗亜の七日間


第8話 first contac

1 少女は歪んだ世界でインプットする

2020年の12月。
自宅と会社とスタジオを兼ねた家が
都立大学駅の方に完成した。
生まれてからずっと住んでいた
代官山のマンションから
引っ越しをすることになった。
代官山のマンションは、
3Fに家族が住む家があり、
一つ上の最上階にスタジオとオフィスがあった。
いつもクロックスをつっかけて、
スタジオへと胸を弾ませて駆け上がった。
徐々にサンダルの大きさは大きくなり、
階段を駆け上がるごと、少しずつ、
コードや言葉やおしゃれなプレイを手に入れていく。
そのうちに曲のことをあれこれ考えながら、
ゆっくりと階段を上ることも増えた。
あの間が好きだった。
ワタシの大切な時間。

12月は荷物を捨てることと梱包することに追われた。
新しい家でお正月を迎えたいという
パパの希望があったから。
パパはみさとさんとは一緒に住まないみたい。
新しい家にみさとさんの部屋はない。
みさとさんは仕事の合間に、
友希は再開した授業の合間に、
引っ越し準備を手伝いにきてくれた。
それでもオフィスとスタジオの機材搬入などに追われて、
結局家の荷物移動は年内に終わらず、
三ヶ日だけ新しい家で過ごして、
4日から家の引っ越し作業を再開した。

2021年の1月末に引っ越しは完了した。
引っ越しが終わると、
コロナがだいぶ落ち着いてきたので、
パパとみさとさんと友希と、
4人で代官山の串カツ屋さんで食事をした。
満腹になったあとに、
まだたくさん雪が残る西郷山公園を散歩した。

友希と雪玉を投げ合った。
一瞬パパとみさとさんも加わったりして。
パパとみさとさんは腕を組んで歩き始めたので、
友希ともう少し雪を投げ合った。
ユキとユキを投げ合った……恥ずっ。

家族以外との初の雪合戦。
ユキが雪投げいいねと言ったから"雪合戦記念日"。
全然字余り。
俵万智の『サラダ記念日』もパパの本棚で発見した。
この引っ越しで正式にパパからもらった。
新しい家のワタシの本棚の
『太陽のしずむ街』の隣に並ぶ。

新しい家で早速3曲ほど新曲を作った。
それをパパに聴かせた。
夜だったので、パパはウイスキーを飲みながら、
黙って最後まで聴いて言った。
「うん。悪くない。まあ、時間はあるし焦ることはないよ。ゆっくりでいいから、もっと練り上げて、こねくりまわしてさ。いいものを作ろう」
ワタシは頷いた。

学校へ行く。
曲を作る。
友希が遊びに来る。
観たい映画や友希にすすめられたアニメや海外ドラマを観る。
詞や曲をためる。
そして友希に借りた『SPY×FAMILY』を読む。
これは眠るためのクールダウン。
どうしても詞や曲を練ったりすると神経が昂る。
そんな時にこの『SPY×FAMILY』は最高なのだ。
登場人物の少女アーニャも
予感(彼女はテレパシー)する女の子なのだ。
彼女の可愛らしさと
アーニャの義母のヨルさんの天然に癒されて眠れる。
いつだかパパに聴かせてもらった杏里の
『オリビアを聴きながら』のジャスミンティー的な感じ。
そう、この曲をハナレグミが
スカパラと組んでカバーしているのを
YouTubeで見たんだけど、
とっても良かった。

ヒットチャートの上位曲もちゃんと聴いた。
BTS、ビリー・アイリッシュ、Maroon5、
エド・シーランにBlackPinkなどなど。

BTSやMaroon5、エド・シーランの
男子たちのメロディーは、
80‘s並にキャッチーでセンチメンタル感がある。
サウンドは重すぎずに自然と入ってきて元気が出る。
一方で、女子たちはマイナーコードで重めなサウンドで、
虚しさや怒りを叫んでいる。
そういう時代なのかしら…。
勉強にはなった。

『太陽がしずむ街』も再読した。
11歳で最初に読んだ時とは、だいぶ捉え方も変わった。
あの頃理解できなかった登場人物たちの
感情の動きも今の方がより理解できるようになった。
また、友希という存在が出来たことで
物語がリアルになったようにも感じる。
主人公のクミが成長した姿を想像して曲を書いてみた。

まだコロナで映画館には行きづらかったり、
公開延期が続いていたので、
ほとんど配信でしか映画は観なかったけど、
印象に残ったのは、
『20センチュリーウーマン』、『魔女と呼ばれた少女』、
『インヒアレントヴァイス』、『バーニング劇場版』。
中でも『インヒアレントヴァイス』は最高だった。


笑えるところは爆笑したし、
権力という悪因や戦争の傷跡などには考えさせられた。
映像も音楽も俳優さんたちもめっちゃ良かった。
戦争は、
罪のない人たちの命奪って戦地に傷跡を残すだけでなく、
兵士たちの心にも
深い深い傷跡を残すものだとつくづく思う。
唯一、映画館で観た映画は
『1917 命をかけた伝令』だった。
マスクをつけて、間の席を空けて座る映画館。
上映前の騒めきがない。不思議。やっぱりカオス。


この映画を観ても、やっぱりつくづく思う。
戦争でたくさんのものを失って、
何かを得ることの無意味さを。
世界には不毛な戦争しか存在しない。
誰がなんと言おうと、有意義な戦争などあり得ない!
なぜそれでも人は愚行を繰り返すのだろう。
この映画なんだけど、うっかり3Dで観てしまい、
1カット風な映画の編集に酔いそうになる。

そんな中、夏には1年遅れでオリンピックが開催された。
なんとも言えない複雑な気持ちだった。
東日本大震災を思い出した。
風にのった放射能が降り注ぐ中で遊ぶ子供たち。
オリンピックのメダルラッシュの熱狂と医療現場。
どっちもまさにカオス。

結果、年末には
アルバムに採用予定の4曲のデモが完成した。

パパとみさとさんと3人で大晦日を過ごした。

2022年を迎えた。

元日には友希と初詣に行った。

1月にも何曲かいい感じの曲が出来たし、
曲作りは順調だった。

戦争が水をさす。
ロシアがウクライナに侵攻した。
連日報道される映像は凄惨で、
伝えられる被害の状況に心を痛めた。
罪のない人たちが、
理不尽に自らの命や大切な人の命を
突然奪い取られる姿に。
家や街が破壊されるという目の前の惨状に
絶望の涙を流す姿に。
遠くからTVやネットを通じて目にする
ワタシたちの心にすら傷を与える。
国境を越える人々と、
家族を国外に避難させ再び戦うために
戦火の祖国へと戻る人々。
彼らが戻っていく場所は、
悲劇しか生まない戦場なのだ。
行く人、見送る人、
どちらの心情も痛すぎる。

しばらくは、
とても曲を作る気持ちにはなれなかった。

戦火にさらされた人々を思うと心が痛む。
うしろめたい気持ちにもなる。

戦地に暮らしてるわけではないワタシは、
ミサイルも降ってこない安全地帯で、
地獄のような日常を過ごす人々に
同情しているだけに過ぎない。
とても悲しくなる。

でもワタシは、それらの感情を胸に
自分のやるべきことと向き合う。
平和を祈りながら。
ワタシにはこの思いを音楽に込めて
訴えていくより他に道はない。
無力だ。
でも諦めない。
音楽には力があると信じたい。

6月6日。
前年より8日早く関東地方が梅雨入りした。
さらに2曲デモがあがった。
テストも終わり、夏休みに入る。
そんな梅雨の中休み。
7月8日。
朝目を覚まして、
遅い朝食を食べるためにリビングに向かう。
TV画面に映るのはヘリコプターからの映像。
安倍晋三元総理が銃撃された。
今年はなんという年なんだろう。
また心の奥がざわざわする。
スタジオに入るものの集中できない。
パパがスタジオに入ってくる。
抹茶フラペチーノをくれた。
「安倍さん。亡くなっちゃったよ」
「……かわいそうに……」
それしか言えなかった。
安倍総理が好きだったわけでも、
自民党が好きなわけでもまったくない。
正しいことばかりしてきたとは決して思わない。
同時に間違ったことだけ
してきたわけでもないと思う。
ただただ悲しい出来事だ。
パパはワタシの頭を撫でながら言った。
「今、色々と世の中で嫌なことや悪いことが起きている。考えることはいいことだけど、考え過ぎちゃダメだよ。色んな感情を一人で抱え込んで、塞ぎ込んじゃダメだからな。友希ちゃんやパパに話せよ。曲は焦って作るものじゃないし。悪い空気に影響され過ぎちゃダメだぞ」
そしてワタシのほっぺを軽く摘んで微笑んだ。
ワタシも微かに微笑んで頷いた。
パパはスタジオを出て行く際に振り返って言った。
「もうすぐ仕事が終わるから、飯食ってそれから音楽でも聴きながら、今夜は久しぶりに二人で語り合おう」
「うん」
今度はしっかりと微笑み返してワタシは頷いた。

信仰心とは何なのか。
巻き込まれた子供たちを誰が救うのか。
この問題に限らず、
大義のための悪を告発しようとして
闇に葬られて行く人たちを誰が救うのか。
そもそもその大義とは誰のためのものなのか。
安倍元総理の銃撃事件は、
そんな暗くて重いものをワタシの心に残した。
そしてネットの中では、
ウクライナ戦争の黒幕や安倍さん銃撃の黒幕など、
様々な憶測が飛び交っている。
TVが伝えることがすべて真実ではないと思う。
ネットでも陰謀論も溢れかえる中、
真実を語る人もいる。
これだけ情報が溢れるこの時代に、
ワタシ自身が
真実を見極めなければならないと強く思う。
危険で歪んだ世界。

それに日本では、
クリエイターやアーティスト、芸能人が
政治的な発言をすると叩かれる。
欧米では当たり前のことなのに。
殺されてしまった人を
殺してしまった人を
生んでしまったことは、
ワタシたち国民にも責任があるのだと思った。
無関心だって立派な罪だ。

そんなことを丸々1ヶ月、
ぐるぐると頭の中で考えた。
そして今のワタシが思うことを曲に込めた。

それから来年の8月30日に
横浜アリーナを押さえることが出来るのだけど、
そこで初めて
ライブをやらないかとパパが聞いてきた。
パパはワタシの気持ちを優先するから、
嫌ならばやらなくていいと言ってくれた。
ワタシはそれで少しでも
みんなが元気になってくれるなら、
喜んでやると言った。

曲作りに没頭する日々。
W杯で日本は強豪国を連続して撃破した。
日本が惜しくも決勝トーナメントで
クロアチアに敗れ、
初のベスト8進出はならなかった。
そんな日本が熱狂包まれ、
悔しいため息をついた頃、
ついに3rdアルバム用の18曲のデモが完成した。

2023年を迎えて、
3rdアルバムの発売日が
ワタシの誕生日前日の一日前の7月4日に決まった。
全世界同時配信・発売。
2月、レコーディングのためにロスに向かった。

レコーディングはエキサイティングだった。
2ndアルバムに参加してくれた多くの
一流ミュージシャンが今回も参加してくれた。
前回よりもお互いに理解し合っているので、
いいディスカッションと
より良い音の積み重ねができた。
途中ニューヨークからママが遊びにきた。
2曲コーラスで参加してくれた。
嬉しかった。
パパとママと3人で
シーフードレストランで食事した。
ワタシも白ワインを少しだけ飲んだ。
レコーディングは充実していたし、
久しぶりに3人で過ごした時間は
とても楽しかった。
最高の18曲の録音ができた。
興奮する。
とても手応えを感じる。
歌入れも終わった日に
スタッフみんなで打ち上げをした。

そのあとホテルに帰って、
パパの部屋でふたりで
ワインを飲みながら語り合った。
こんなにお酒を飲んだのは初めてだった。
「パパさ、このアルバムにはかなりの手応え感じてんだよ。今回のフレアの頑張りはすごいよ」
と打ち上げでは、みんなを労い
直接ワタシを褒めなかったパパがそう言った。
「嬉しいよ。でもパパ今回あまりダメ出ししなかったよね」
とワタシも気になっていたことを聞いてみた。
「それはダメ出すようなところがなかったからだよ。もうなんだかフレアが手の届かないところに行ったような気がした」
「そんなことないよ。まだまだだよ」
「いや。親だから言うんじゃなくて、いちプロデューサーの意見として言ってると思ってな。これは世界のてっぺんを獲れるアルバムになってきてると思う」
嬉しかった。
ここまでパパに褒められたことはなかった。
でも寂しさもある。
上手く言えないけど、
突き放されたようで……。
恥ずかしいし、情けないから
声には出さなかったけど。
”ずっと一緒だよね?”ってパパに聞きたかった。
それから今回録音した曲の細部の話をずっとした。
あの詞が良かったとか、ギターのソロが良かった、
ベースが超カッコ良かったとか。
ミュージシャンたちを心ゆくまで絶賛した。
酔ってワタシは聞いてみた。
「今の気分で聴きたい曲は?」
するとパパは散々悩んでこの曲を選んだ。
「ベタだけどこれしかないっしょ」

最後の方の歌詞を聴きながら泣きそうになった。
曲が終わり、
パパは珍しくワタシの前で酔っ払って言った。
「いつか自分の中で自分の焼き直しをしてると思う時が必ずくる。その時に自分が気持ちよくなくなったら新しい曲を作る必要なんか無くなったって時なんだ。それまではずっとフレアの心のままに曲や言葉を紡いでいけばいいんだ」
それから二人で美味しいワインをたくさん飲んだ。
ワタシたちはそのあと、
パパのベッドで酔い潰れて眠ってしまった。

次の次の日から、
ミックスダウンが始まり、
その後トラックダウン作業を経て、
3rdアルバムは完成した。

東京に戻ると桜が咲いていた。


5月ワタシのボイスメッセージが
レコード会社のH.P.で公開された。
アルバムに込めた想いを話した。
そして、プロモーションの第一弾として、
8月30日の横浜アリーナの
ファーストライブのチケットが
ゴールデンウィーク明けに
発売されることと
そのライブは全世界で
生配信されることが発表された。

チケットは発売後数分でsold out。

7月1日。
ライブのリハーサルが始まった。

リハーサルが始まって3日目。
7月3日の朝だった。
ワタシは部屋でストレッチを終えて、
朝食を食べるためにリビングに行った。
すると今井のおばちゃんが言った。
「旦那さんが起きてこないんだけど、フレアちゃんちょっと見て来てもらえるかしら。昨夜帰りが遅かったみたいなのよね」
「ああ。リハの後飲みに行ったみたいメーカーの人と」
そう言ってワタシは2階に上がって、
パパの部屋をノックした。
返事がなかったので、ワタシは部屋に入った。
パパはベッドで眠っていた。
いや。

眠っていたように見えた。

身体が動いていない。

ワタシは近づいてパパの顔を覗き込んだ。
パパは息をしていなかった。
血の気が引いた。
私の身体もみるみる白く冷たくなって行くようだ。

私は階段を駆け下りおばちゃんにそのことを告げ、
救急車を呼んだ。
電話口で心臓マッサージをするよう支持された。
支持通りパパの心臓マッサージをした。
やり方が合っているのか分からない。
でも言われるまま必死で心臓マッサージをした。

お願いパパ! 息をして!

救急隊がほどなく到着して、
蘇生処置が始まり、処置をしながら
パパは救急車へと運ばれた。
ストレッチャーに乗せられたパパの後から、
ワタシも救急車に乗り込んだ。

2 喪失の中の少女

救急車の中では、
心臓マッサージと人工呼吸と
AEDによる蘇生処置が続いていた。
ワタシは救急車の最後部に
座ってただ呆然としていた。
頭が回らない。
ワタシの予感は、
大切な人には働かない。
心臓マッサージのやり方も
正しかったのかどうか分からない。
このサイレンを轟かせて
走る車の中でも何も出来ない。
無力。無力。無力。

所々記憶がない。
パパはERに運び込まれ、
蘇生処置が続けられた。
廊下で待つよう看護師の人に言われた。
すぐに大江さんと経理の山室さんが駆けつけてきた。

ERの前の廊下に座りながら、
"パパが死ぬはずがない"
とワタシは思っていた。
その一方で言葉にしようがない恐怖に
押しつぶされそうになる。
心臓がギュッと鷲掴まれるように苦しい。
進む先が真っ暗闇に感じて
全身の血の気がひく。
ごく普通に最悪の事態を
予感している自分もいる。

お医者さんが出て来て
淡々とパパの死を告げられた。
何も考えられない。
涙も出てこない。

どこをどのようにパパを連れ帰ったのかも、
目も開けない、口も聞かないパパを
ずっと見つめているだけの間も、
葬儀の段取りを
大江さんたちが仕切ってくれている間も、
途切れることなく訪れる
弔問客の人たちに頭を下げている間も、
全く思考していなかったような気がする。
よく覚えていない。
友希も、みさとさんも、今井のおばちゃんも、
弔問客の人々も皆泣いていた。
ママがアメリカから来てくれた。
泣きながらママはワタシを抱きしめてくれた。
ワタシは涙すら出なかった。
感情が消えてしまったのかな。
なにこれ?
神様なんて元々いるなんて思ってなかったけど、
人間よりも大きな何かが、
この世界を動かしているのか、
見ているような気はしてた。
今、ワタシはその何かに向かって話しているの。

なんなのこれ?

どういうつもりなの?

アルバムの発売日の前日に、
ワタシの二十歳の誕生日の2日前に、
パパがなぜ死ななくちゃならなかったのよ!?

なんか意味があるわけ?

意味がないなら、
いたずら?

そんな酷いいたずらされる覚えはないよ!

大きな斎場で執り行われた告別式の辺りから、
徐々に思考が戻って来たような気がする。
パパには
こんなにもたくさんの仲間や関係する人たちがいたんだ。
そのことを初めて知った。
どれだけワタシは、
パパのおかげで
余計なものから守られて来たんだろう。

長いクラクションが鳴らされる。
霊柩車で火葬場へと向かった。

パパが焼かれる炉が閉まる瞬間だった。
ワタシは壊れた。
ワタシの外へと放出された何かは、
涙とか鼻水なんていうレベルではない。
今まで育って来たワタシの全てが
蒸発していくようだった。
ワタシが発しているのは、
声なのか悲鳴なのかも分からない。
とにかくワタシはコンセントが
抜けてしまったようだ。
ママは強くワタシを抱きしめて静かに泣いていた。

ママはしばらく一緒に住むと言って日本に残った。
ワタシの代わりに
大江さんと事務的なことを話してくれた。

人って残酷よね。
こんなにもワタシは大切なものを失って、
苦しくて悲しくてどうしようもないのに、
寝るし、ちょっとだけでも食事もする。

発売された3rdアルバムは、
嫌がらせのように全米、欧州、アジア、日本で
1位を獲得した。

なにも感じない。

ライブは中止にしてもらった。
払い戻しにキャンセル料と
損失は大きかったと思う。
それでも大江さんもレコード会社も
ワタシの気持ちを大切にしてくれた。

ワタシはとても歌なんて歌える状態ではなかった。

ママがたくましく見えた。
幼い頃一緒に暮らしたママには
感じたことなかった"頼れるママ”。

2023年の長かった夏が終わり、
短い秋があっという間に過ぎ、
12月を迎えた。

友希と一緒に
海外ドラマを見たり出来るようになった。
ママと一緒に音楽を聴けるようになった。
でもパパを思い出させる曲や映画はダメだった。
また心が粉々になりそうでムリ。
あとは救急車のサイレンを聞くと動悸がしてしまう。

それでも時間が解決するというのは嘘ではない。

ランニングマシーンに乗ったり、
自宅のジムでワークアウトが出来るようになった。
それでもまだ音楽に向き合う気持ちには
まったくなれなかった。

それからパパの葬儀で
週刊誌にワタシの写真が撮られてしまった。
そこで、大江さんの提案で、
事務所を中目黒に移して、
ホームページを作り、
事務所の住所などを公表して、
そちらにマスコミやファンの目を
向けさせようということになった。

ママとも話して、
手続きなど今後のことも含めて、
社長不在で会社を運営することは不可能なので、
大江さんに社長に就任してもらいうことした。

「お父さんがいなかったら、今の自分はない。フレアちゃんと会社のことは精一杯守る」
と、大江さんは気持ちよく引き受けてくれた。

そう言ってくれた大江さんのためにも、
近くで支えてくれるママのためにも、
音楽活動を再開しなければと思うのだが。
音楽に向き合えない。
こんな状態で中途半端に向き合えるほど
音楽というものは甘くない。
それはワタシ自身が誰よりも分かっている。

ごめんねみんな。
もう少し待ってね。

2024年の春。
事務所は中目黒に移転した。

春、梅雨、夏、秋と
身体を動かし食事をちゃんととる。
そこまでは回復した。
ワタシの回復と反比例するように、
ママが段々とパワーが落ちてゆくので、
「もうだいぶ元気になったし、いいよママ帰っても」
そう言ってみても、ママは、
「フレアが音楽に戻れるまではそばにいる」
と頑なに言うので、
「彼氏、呼んだら?」
と言ってみたら、
翌週にはアメリカ人の画家である
ママの彼氏のアレックスがやってきた。
事務所の跡を利用して
彼のアトリエが我が家に出来た。

クリスマスには、
ママとアレックス、
友希と友希の彼氏で服飾系の学校に通う健司くん、
みさとさんと大江さんと大江さんの家族や
会社のスタッフ、みんなでパーティーをした。
ママが山下達郎の『クリスマイヴ』や
ブライアンアダムスの『クリスマスタイム』や
マライアキャリーの歌を歌った。
みんな帰ったあと、
部屋に戻ったワタシは、
パパが亡くなって初めて
一人で音楽を聴いた。
山下達郎の曲を聴いて
彼のコーラスのバディである
吉田美奈子のことを思い出した。
彼女のある曲の歌詞が気になったのだ。

そうだ。
その通りです美奈子さん。
ワタシは人々の心に寄り添う歌が作りたいんだ。
ブータンの高地の校庭の片隅で、
戦地の防空壕で寄り添いながら、
人種の坩堝で揉まれながら、
近所の学校の音楽室で、
会社で、家庭で、あらゆる場所で、
もがきながら生きる人の心に寄り添いたい。
時に応援するように、
時に抱き締めるように。

自由に扉を開けていれば音楽の神様と繋がれる。
自然にワタシの身体に降りてくる。

パパの魂は死んでなんかいない。
今もワタシの中で生きている。
自由の扉を
閉ざしてしまったのはこのワタシだ。

ワタシは、
ワタシの作りたいものを
心のままに紡いでいく。

2025年の2月。
予感がした。
ワタシが探している、
今ワタシに必要なものがやってくる。

大江さんから
八雲愛尊の話を聞かされる。
”ああ、このことだ”とワタシは思う。

3 ファーストコンタクト


都立大学の駅を降りた愛尊は、
目黒通りの方へ向かった。
そして目黒通りを渡って、
駒沢公園方向へと歩いて行く。
長い坂道を登って左に曲がる。
事務所ではなく自宅の敷地内にある
スタジオに来るようにと
大江からのメッセージに地図付きで記されていた。
携帯で地図を見ながら歩く愛尊。
小春日和の穏やかな午後。
街の雰囲気が気に入った愛尊は心地良さそうに、
楓麗亜のスタジオを目指して歩いた。

◆◇
楓麗亜は自室のドレッサーで髪型を整えている。
鏡の中の自分を見つめて笑ってみせる。
少しぎこちないような気がして苦笑いをする楓麗亜。

◇◆◇
スタジオ内で事務作業をしている大江。
携帯にLINEが着信する。
携帯を覗き込む大江。
愛尊からの"着きました。"というメッセージ。
スタジオを出てエントランスへと向かう大江。

大江に迎え入れられ、
大江の後からスタジオへと入ってくる愛尊。
大江が笑顔で長机の向こうの椅子を手で指し言う。
「どうぞ。そっち座っちゃってください。コーヒーでいいですか?」
「あ、ありがとうございます。はいコーヒーで結構です」
と愛尊は答えて椅子に座る。


大江がスタジオを出て行くのとすれ違うように
スタジオの防音扉が開く。
扉を開けた楓麗亜が真っ直ぐに愛尊を見つめている。
思わず立ち上がる愛尊。
見つめ合う愛尊と楓麗亜。

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