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思考と感性、感性と思考

谷川雁『原点が存在する』を読んでいた。
社会主義的なリアリズムを基調とした詩人、とwikipediaには書いてあったが、あまりそういう左翼的な関心がなくても十分刺激的だった。

表題作を読んでいると、言葉や詩に関する研ぎ澄まされた思考に惹かれる。感性と思考は離れたもののように思われがちだけど、実際は密接につながっているものなんじゃないか。お腹と背中くらい近く、そして分かち難いものなんじゃないか。なんとなくの感性というものはなく、思考によって磨き抜かれた感性なんじゃないか。そんなことを谷川雁を読みながら考えていた。

そもそも仮にまったく思考しない感性なるものがあったとしたら、流石にそれはちょっとパッパラパーなんじゃないか。何かを感じ取るアンテナの感度は思考によって高められるようなところもあるんじゃないか。いや、そもそも思考とは言葉であり、認識もまた言葉であるとも思うので、やはり言葉、思考なくしては感性も成立しないかもしれない。共感も違和感も、価値観も世界観も、無意識のうちに言葉と思考によってできているところがあるんじゃないか。

パッパラパーといえば、パラッパラッパーというゲームがあったけれど、あれはなんとなくずるっとした格好をしてウェイウェイ言っていた当時のラッパーの軽薄かつ頭の悪そうなイメージを逆手に取りながらの軽快なユーモアだったんじゃないか。薄くペラペラなキャラクターはまさに軽くて薄いの象徴であり、それも世間に対するアンチテーゼだったのではないか。まったく関係ないのだけど、言葉というのは連想を促すから面白い。連想されるままに書いてみたら、どこまで行けるだろう。書くことはとても予測不能なことなのだと書きながら思う。


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