ケアとキュアについて2

(最終的に)あらゆる医療がケア化してほしい。

について述べます。
前回お話ししましたが、ケアにおいては双方向的に関係が構築されます。

実際に超急性期においても、患者の意思が反映されている医療が行われる必要性は議論されています。この意味で、医療のパターナリズムは解消に向かっていると考えられます(勿論、限界はあるので父権主義的にならざるを得ない部分はあります)。
パターナリズムが打倒されたキュアはケアへと変貌していきます。ここで行われる「ケア」について、私が常々考えていることがあります。それは、

全ての障害は眼鏡のように透明化されるべきである。

です。
現代日本においては、視力が低下してもそこまで大きな問題になりません。なぜなら、眼鏡やコンタクトで補正できるからです。コンタクトの場合は健常者と見た目が全く同じになります。一方、眼鏡ではレンズを目の手前に置くことで視力を補正します。そのため、眼鏡を掛けていると健常者と見た目が大きく異なります。
しかし、ここでその見た目が差別の対象となることはありません。おそらく本邦だけでなく多くの国で眼鏡をかけていることは差別の対象にならないでしょう。当然、眼鏡をかけていることのセルフスティグマもありません。
なぜ、眼鏡だけが差別から逃れられているのでしょうか?
私にもはっきりとわかりませんが、これは素晴らしいことです。おそらく我が国では視力低下が唯一の差別が存在しない身体障害です。


このように眼鏡をかけていれば視力低下という障害を補正できるだけではなくそれによって生じる(ことが想定される)差別がなくなります(なぜか、差別されません)。これが、眼鏡によって障害が透明化されるということです。
また、伊達メガネのようになると義肢的に使われる眼鏡がファッションの道具に化けます。ここでは、眼鏡はもはや補正器具ですらありません。

眼鏡の例を見れば一件荒唐無稽に思える、医療を全てケア化するということが必ずしも不可能でないように思えるはずです。

私が信じている医療のあり方はケアです。双方向の流れであり、対人関係です。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?