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二十年間思い違いをしていたことについて(再考:ノルウェイの森)

 前回、J.D.サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』について思うところを書いた。

 初読が同時期にあたる作品に、村上春樹氏の『ノルウェイの森』がある。

 こちらの作品に関してはおよそ3〜5年に一度のペースで読んでおり、個人的には殿堂入りを果たした作品でもある。

 当作品については読み返すたびに共感する人物が移ろい、自分自身の成長も伴い見えなかった一人一人の考えや思いが色を帯び、リアリティが増してくる。

 奇しくも今年、冒頭のボーイング747の機内で『混乱』した主人公のワタナベと同じ年齢になった。

 そんなおり、一つの疑問が頭をよぎった。
 それは、ワタナベは本当に直子を愛していたのだろうか?ということである。

「そう考えると僕はたまらなく哀しい。何故なら直子は僕のことを愛してさえいなかったからだ」[ノルウェイの森/上巻23p 村上春樹 講談社文庫]


 このセリフは物語上、重要なポイントになっているが、これは実は表裏なのではないだろうか。

 十代の頃の(さらに言えば男の子の)恋愛観、恋愛意識というものはとても独りよがりで、ともすると愛情とは正反対の行いをしてしまう事が少なからずあると思う。それが一つの行動、一つの言葉であればまだ救いはあるが、愛ゆえであると思い込んでいる者の、熱を帯びた継続的な行いであるとすればそれはひどく残酷である。

 自分が愛情であると思い込んでいるものが、実は相手を致命的に損ない傷つけてしまっている。それが足元を見ても姿は見えず、過ぎ去った後でしか気づくことのできない、結果論でしか測れない種類のものであればなおさらである。

 永沢はいち早くそれに気付いており、ハツミの元を離れた。あるいは捨てた。ノルウェイの森界隈では(なんだそりゃ)あまり名前が挙がらないが、終盤に登場する油絵科に通う男子学生の伊東もこれにあたる。

「なんとなくわかるだろ、女の子ってさ」と彼は言った。「二十歳とか二十一になると急にいろんなことを具体的に考えはじめるんだ」(中略)「彼女のことがもうそれほど好きじゃないんだね?」「まあそうなんだろうな」と伊東は認めた。[下巻219p-220p]


 そして致命的な思い違いをしながらワタナベは直子を想う。

「君には恋人いるの?」と伊東が訊いた。いることはいる、と僕は一呼吸置いて答えた。でも事情があって今は遠くに離れているんだ。「でも気持は通じているんだろう?」「そう思いたいね。そう思わないと救いがない」と僕は冗談めかして言った。[下巻221p]

 村上春樹氏の作品の主人公の多くは、本質的に人を愛することができない(あるいは愛し方を決定的に掛け違えている)人物が多い。

 初期三部作(+ダンスダンスダンス)あたりでは、ある日突然ガールフレンドが自分の元を去るが、概ね「僕にはどうすることもできない種類のものである」とクールに受け入れてしまう。
(以降の『ねじまき鳥クロニクル』あたりからは、関係性が夫婦という間柄に移行していることもあってか、掛け違えた末に喪失してしまった愛を再獲得して行くという方向に変わっている。『騎士団長殺し』、夫婦ではなく友人だが『色彩を持たない多崎つくると彼の巡礼の年』も喪ったものを再獲得して行く物語だ)

 ワタナベもパーソナリティーとしては、そういった人物であることは否めないだろう。


 では、ワタナベは直子の何を愛そうとしたのだろうか。

 それはいわずもがな親友のキズキなのだろう。ワタナベが愛したのは、あくまでも直子の中にいるキズキであり、そこには直子というひとりの人間は不在である。そしてそれは、ある日突然姿を消してしまった親友に対して育んでいた友情であるかもしれないし、贖罪であるかもしれない。死の理由もわからないまま、十七歳の親友から一秒ごとに遠ざかっていく自分自身に対する言い訳だったのかもしれない。

そう考えるとたまらなく哀しい。


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