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三島由紀夫『金閣寺』 感想文

高校生の頃、青い衝動に突き動かされ世に名作と呼ばれる文学作品をいくつか買い揃えた。それは『罪と罰』であり『人間失格』であり『仮面の告白』であった。
言うまでもないが、読書経験の浅い高校生にこれらを満足に読み進められるわけもなく、ページ数は少なく、文体もさほど難解でない『人間失格』を読了するのが関の山であった。

 手元に『仮面の告白』を置く私を見るにつけ、父は母に「あの子は大丈夫だろうか?」と漏らしたと言う。
なにが「大丈夫」なのかは未だにわからないが、あの時、息子としては心配する父に「大丈夫だよ。読めなかったから」という回答をきちんと返してあげれば良かったと思う。
そういった出来事を経て、この度ついに三島童貞を喪失した。

 まず感じたのは、その日本語の美しさである。
読書中にツイッターにて「美しい日本語を織るように」と表現したが、若干の訂正を加えたい。
「織る」だと女性的になってしまい三島的とは言えない。言うなれば「精緻」であり「構築」である。
三島由紀夫はつまり、美しく精緻な日本語で、文章の中に『金閣寺の美しさ』を構築したかったのではないだろうか、とつまらん感想をすら抱いてしまうほどであった。

 主人公が囚われた「美」と「破壊」に対する本当の気持ちは読み解けなかったが、美しいものを汚(けが)す…否、美しいものを美しくないものにすることによって、美しい瞬間を自分だけの中に永遠に閉じ込める、という気持ちはわからないでもない。

 新雪を見ると、そのうぶな美しさを切り取っておきたいと思う反面、次第に露出する地表と、土と混ざり合い泥水のように醜く変貌してゆく「美」に慄き、自ら靴の底でそのうぶな「美」を踏み散らしてやりたいと思うことがある。あるいはそれは処女を汚してしまいたいとか、純粋な少年に悪の香りを嗅がせたいとか、心の美しい人の嘘を暴き、眼前に突きつけてしまいたいとか、白鳥のように美しいバレリーナの脚をー

ああ、お父さん…僕はやはり大丈夫じゃなかったようです。

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