作文ガチアンチ

文章を書くという行為は、形式を問わず面倒である。
noteの更新間隔を見てもらえれば、僕が心からそう思っていることを簡単に証明できることだろう。
当然、この記事を執筆しているまさに今この瞬間もひたすらに億劫だ。

では一体なぜそんな僕が急にnoteで記事を書き始めたのか。
答えは簡単だ。

もっと面倒な作業から逃げているからだ。

僕にもいろいろあるので、その作業内容が一体何かについてはここでは触れないようにする。
ただ一つ言える絶対的な事実としては、僕はこんな駄文を書いている場合では無いということだ。

しかしながら、それでもまだマシな逃避方法を選択しているつもりだ。
先ほどまでマインスイーパに興じていた時間と比較すれば、駄文とはいえ何かを生み出しているだけ評価できるはずだ。いや、してほしい。

さらに言えば、頭の中に溜まりに溜まった産業廃棄物を排出する行為としては、このように文章に出力してしまうのが一番だ。
腹が立った時、その原因となるものを一つずつ紙に書き出していくと怒りが収まるという例のアレと同じ理論である。

そのような視点でこの行為を改めて見直してみると、これはもはやトイレでの排泄行為と相違無いと言っても過言ではない。つまり生理現象の一種というわけだ。
そうであるならば、僕は今まさに真面目に作業に取り組んでいる模範的な人間といえる。

真面目な話、得体の知れないわだかまりなどは言語化するのがとにかく重要だろうと個人的には思う。
赤ちゃんが泣くのは、不快なものの正体が分からないから泣くというのが僕の持論だ。
幽霊も正体が分からないから怖いし、サイコパスもその思考に行き着くロジックが理解できないから怖い。
正しいかどうかよりも、自分で言語化することで無理矢理にでも物事を納得させることで、生活の中のストレスも軽減できるはずだ。

そう考えてみると、Twitterというメディアは素晴らしい。
投稿内容は140文字以内。文章というよりかは一文だけを気軽に発散できる。
それどころか目に見える形で共感を得られたり反応が返ってもくる。
しかし僕はそれすらも面倒臭い。

人との会話はそうでもないが、文字へと表すとなると本当に面倒臭い。
なんならLINEさえまともに返すことができない。
でも電話も面倒臭い。あれ?実は人との会話も怪しいかもしれない。

そもそもコミュニケーションそのものを億劫に感じているのかもしれない。
ここまでくるとコミュニケーション障害ですらない。
だってそんな機能は標準搭載されていないのだから、障害が発生しようがない。
言ってしまえばコミュニケーション機能未実装、略してコミュ装か。いや、それだと未実装かどうかがハッキリしない。だからと言ってコミュ未は語呂が悪すぎる。というかこんな低俗な造語の略称なんて口に出すことは一生無いだろう、それこそ未実装でいい。

とまあここまで散々御託を並べてはきたが、別に僕は人間関係を煩わしいと思ってはいない。
たまに一人で落ち着きたい時もあるが、基本的には人といる方が好きだ。

ただ、会話などの基幹部分に相当する作文ガチアンチなだけだ。

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