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三つの建徳的談話(1843)-内なる人間を強化するということ-試訳

セーレン・キェルケゴールの右手著作“Tre opbyggelige Taler, 1843”(『三つの建徳的談話』1843)より、“Bekræftelsen i det indvortes Menneske”(内なる人間を強化するということ)を、既訳(福島保夫訳)を参照しつつ訳出しました。随時更新します。誤訳がありましたらご指摘ください。よろしくお願いいたします。

三つの建徳的談話

内なる人間を強化するということ-

祈 り!

 天に在ます父よ!あなたは全ての善き賜物をあなたの慈悲深い御手の中に持ち給うのです。あなたの豊饒さは、人間の理解の及ばないほどに豊かであり給うのです。あなたはとても快く与え給い、そしてあなたの善意は、人間の心では測り知れないほどに偉大であります。というのは、あなたはどんな祈りをも叶え給い、そして私たちが祈り求めるものについて、或いは、私たちが祈り求めるものよりも遥かに善きものを、与え給うからであります。だから、あなたは誰にでも各々に定められた分け前を、あなたのお気に召すままにお与えください。しかしその時にも同じようにあなたは、全てがあなたに由来するということについての確信を誰にでもお与えください、即ち全てを忘れさせる快楽の中で喜びが私たちをあなたから引き離すことのないように、即ち苦痛があなたと私たちの間に分け隔てを置くことのないように、即ちむしろ私たちが喜びの中であなたを追い求めることが、そして苦痛の中でもあなたのもとに留まっていることができますように。そしてもう私たちの余命が幾ばくもない時、そして私たちの外なる人間が滅びる時¹⁾、死がそれ自身の名において、冷ややかに恐ろしくではなく、むしろあなたからの、私たちの父、天に在ますあなたからの挨拶と便りと共に、証と共に、優しく親しく来たることができますように!アーメン。

『エペソ書』3章13-21節

 世界の首都、傲れるローマの中で。そこは、地上全ての栄耀と栄華とが集まっていたところである。そこは、絶望的な不安の中で、人間の才知と狂乱とが、その刹那を味わって暮らしていけるようなあらゆるもの、人間の才知と狂乱とが、官能的人間を驚嘆させるために案出しているあらゆるものが集まっていたところである。そこは、毎日が妙なもの、ぞっとするようなものに立ち会う者であり、そして翌日には更に妙なものを見て、前日のそれのことなど忘れてしまうというところである。そこは、誰もが、何らかの仕方で大衆の注目を惹きつけることができるようにと考えており、ご立派な自信で有頂天になり、乏しい割り当てで、羨ましいほどの幸運な瞬間を、巧みに用いようと、自分を迎え入れるために予め全て準備してくれていた、いわばその晴れの舞台へと急いで行ったところである。そのような名高いローマにおいて、――私たちの聖句として取りあげられる手紙を書いた使徒パウロが、囚人として生きていた。誰にも知られずに囚人として彼はそこへ連れて来られた。だがしかし彼は、一つの教えを携えていた。その教えについて、それは或る特別な啓示によって彼に告げられた、神の真理である²⁾と彼は証言した。そしてこの教えは全世界に君臨するであろうという揺ぎ無き信念を、彼は携えていた。しかし、もしパウロが、人々を煽動し、暴君を震撼させる反逆者であったとしたら。というのも、支配者がパウロの苦しみによって自分の復讐心を満足させ、念入りに選り抜かれた様々な拷問でパウロを責め苛むことができるように、パウロは今やローマへと連れて来られたわけなのだから――然り!もしそうであったとしたら、パウロの運命は短い時間、その胸中に人間的な感情のまだ死に絶えていない全ての人々を揺り動かし、その恐怖によって一瞬で、享楽的で好奇心の強い大衆を唆すということもありえないことではないであろう。――然り、暴君の王座は覆されていたかもしれないのである!しかし、パウロはそのように扱われはしなかった。ローマが彼を恐れるには、彼はあまりにも取るに足らないもので、権力が彼に対して武装するには、彼の愚行はあまりにも無邪気であった。では彼はどのような者だったのだろうか?軽蔑された民族に属していた男、もうその民族には属していないが、躓きとしてその民族から追放された男、――キリスト者と成ったユダヤ人、全ローマの中で最も孤独な、最も見放された、最も無害な男であった。そのような者として彼は扱われたのである。彼はただ囚人であるというだけであって、彼の獄舎は寛大なものであった。そして、あの勝利に満ちた信念を携えてきた彼、その彼に今や活動空間として当てがわれたのは、拘禁の孤独と、日々彼の監視を委託された兵士であった。――世界の首都、騒々しいローマの中で。そこは時の奔放な力になにものも抗い得ず、全てが、現れたかと思えばすぐに吞み込まれ、全てその忘却の内に跡形もなく消し去ってしまうところ――そこに使徒パウロが、取るに足らない男が、孤独な幽囚において、ひっそりと引き籠もり、殊更忘却に委ねられるまでもなく生きていたのだ。というのは、彼の存在について知っているか或いは気を揉んでいるかのような者は、この巨大な都市には誰もいなかったからである。しかし、彼を取り巻くあらゆるものが、虚無の内に、影よりも素早く消えていった中で、彼が公言したその教えは全世界に君臨するであろうという信念が、彼には確たるものとしてあったのである。――その全世界において、そこから今や彼は隔離され、彼が目にする唯一の人間は、彼を監視していた兵士だけであった。或る人間が罪を犯して苦しんでいる時、その罰を耐え忍んでいても、それは何の手柄にもならない。だが、もしその人間が罪無くして苦しみを耐え忍ぶならば、それは讃えられることなのである³⁾。このことは、思うに美しく、聞くに愛らしく、知るに善きことである。しかし、それは行うには難しいことなのである。だが、その心において神への畏敬と信心深い者、その者は神の援助が自分の魂を謙虚にすることを知り、やがてその魂は再び神において喜び、主において静かになるに違いない。それから彼は、彼の期待が夢の如くに消えてしまい、全世界を得ることを欲した彼自身が、囚人と成り果て、闘争中において倒れたのではないが期待外れのように消耗したということが非常に重苦しかったということについて、忍耐において彼自身を救うに違いない。もしも、彼を信じ切り、彼に期待していたような幾人かの人々がいたならば、彼はその人々のことを思い出すに違いない。そして彼の魂は、その人々も自分を見捨てるであろうということについての痛ましい懸念を知らないということはないであろう。彼は、その獄舎から恐らくその人々に宛てて次のように書くに違いない。「今私を見捨てないでほしい。私が全ての人々から見捨てられているこの時に。以前と同じようにあなたたちの私への信頼を維持してほしい。今私を忘れないでほしい。私が全ての人々から忘れられているこの時に」⁴⁾。恐らく彼はその人々の心を動かすに違いない。恐らく一人は彼のところに来るに違いない。そしてもし許されるならば、その幽囚の男を訪ね、彼と共に悲しみ、彼を慰め、そして彼によって建徳されるであろう。こうしたことについて語るのは美しいことであり、考えるだけでも確かに全てのより善い人々の心を動かす。しかし、パウロは一人の使徒であった⁵⁾。悲しんでいるようであっても、彼はしかしながら常に喜んでいた。貧しいようであっても、彼はしかしながら多くの人々を富ませていた。何も持たないようであっても、彼は全てのものを持っていた⁶⁾。その獄中から、彼は遠く離れた教会に宛てて次のように書いている。「それだから私は、あなたがたのために私が被っている私の苦難に関して、落胆しないように請いたい。これはあなたがたの栄光なのである」⁷⁾。自分の方が慰めを必要とするように思われるかもしれない彼。その彼が、言うなれば、素早く主と心を通い合わせ、苦難においても喜び、危険においても毅然とし、自分自身の苦しみに心奪われず、けれども教団の人々に対して心配しているのである。そして、教会の人々を落胆させることになりうる限りにおいてでしか、彼は自分の苦難を考慮しないのである。
 もし、或る人間がその不遇において平和と憩いを見出しているとしても、他の人々が彼の不遇に関して率直さと信仰とを失うかもしれないという心配が、多分彼に新しい不安を呼び起させるであろう。しかし神への畏敬が彼において勝利を得るであろう。そして彼は信頼に満ちて、愛する人々を神の御手に委ねるであろう。こうしたことを語ることは、人々の心を感動させるのである。より善き人々であれば誰でも、確かに、この静かな服従は、切望するだけの価値があると感じることであろう。しかしパウロは一人の使徒であった。彼はその獄中から次のように書いている。「私があなたがたのために苦しんでいるこの私の苦難は、あなたがたの栄光なのである」。
 人々に勧めるべき教えを持ち、人々を説き伏せることに努める者。その者は、その者が安心して各人(den Enkelte:単独者)に示せるような証言を持っている。だが、この証言が役に立たない時には、彼は力が自分から奪い取られることをよく認識するであろう。そして、このことがどんなに重苦しくとも、彼はなお、心の中で神と和解するであろう。そして、恐らく花婿⁸⁾と喜びを去られた者のように悲しむであろう。しかしまた、目標のはっきりしないような走り方をしない者⁹⁾、自分自身の魂を救い、安らぐことのない気持ちを信仰の服従の下に置き、迷える思いを信念の力によって愛の絆に結びつけることは、他者を救うことよりももっと高尚なことだ、ということを忘れない者のようにも悲しむであろう。このようなことを語ることはためになることである。そして、どんな正直な人間も、その者が大規模な事業に勤務しえない時には、そのように自分自身の家を整え、もっと小規模な仕事に就く方が極めて幸福なことを、恐らく認識するであろう。ではパウロはどうであろうか!彼は権力者の愛顧の内に生活し、そのおかげで彼の教えを勧めることができたのか?否!彼は囚人だったのだ。賢者たちは、彼らの名声が真理のための保証となりえたということで、パウロの教えに敬意を表したのだろうか?否、パウロの教えは賢者たちには愚かなことであった¹⁰⁾。彼の教えは素早く個々人に超自然的な力を所有させることができたのか?彼の教えはペテンによって各人(den Enkelte)に売りに出されたのか?否!彼の教えは次第に習得されねばならなかった。全てを断念することで始まる試煉の中で体得されねばならなかった。ではパウロは何かの証言を持っていたのか?そうである!彼は彼に抗するあらゆる人間的証言を持っていた。そしてその時にまで彼はなお、教会の人々が諦めてはいないか、或いはもっと悪いことに、彼らが自分に躓きはしないか、という心配さえも持っていた。というのは、真理が蹂躙される時ほど、罪無く苦しむ時ほど、不正がその勝利を安定したものとする時ほど、暴力が奏功する時ほど、無知が善に抗して暴力を行使することさえ必要とせず、むしろ善がそこにあるということにも心配せずに無関心にいつまでも無知のままでいる時ほど、躓きがすぐ近くに迫っていることは恐らくないであろうから。しかし、パウロは証言から見放されて諦めているのだろうか?決してそうではない。彼は他に何ら訴えかける証言を持たなかったので、彼は自分の苦難で訴えかけたのである。それは奇跡のようなものではなかろうか?もしパウロが、自分が奇跡の力を持っているということを、それ以外には強力に証明しなかったのであれば、それが証明ではなかろうか?苦難を教えの真理に対する証明に転ずるということ、不名誉を自分と信仰心の篤い教会の会衆との栄光に転ずるということ、敗訴を、証言の霊感を吹き込む力全体が持っている名誉に関する訴訟に転ずるということ、これらのことは、足萎えを歩かせ¹¹⁾、唖にもの言わせること¹²⁾と同じではないだろうか!
 何がパウロにここまでの力を与えたのだろうか?彼は一つの証言を持っていた。彼は何ら懐疑的な男ではなかった。何しろ心の最も内奥でこの強力な思想を否認するほどの懐疑的な者ではなかった。この世のあらゆるものよりも高次な一つの証言を、彼は持っていた。この世が彼に抗すれば抗するほど、ますます強力に証明する、一つの証言を。では、彼は弱い男だったのか?否、彼は力強かったのだ。彼は不安定であったのか?否、彼は堅固だったのだ。というのは、彼は内なる人間を、神の御霊によって強力に、強化されていたからである。
 使徒自身がそれであったところのもの、彼の全生涯が証明しようとしているもの、それを彼は教会の会衆のどの各人にも願っているのだ。たとえ、あの時代の条件が異なっていたとしても、またたとえ戦いや争いがこの内なる人間を強化することをより必要とし、しかしまた恐らくより困難にしたとしても、この内面の強化において自分の魂を救うということ、それこそはあらゆる時代に、そしてあらゆる状況の下で、人間にとって唯一必要なことなのである。というのは、どんな人間も、あらゆる時代に、とにかく自分の闘争と自分の誘惑[=試煉]を持ち、自分の苦境、自分の孤独を持ち、それらにおいてその者は試みられ[=誘惑され]、証言が見放している時には、自分の不安と自分の無力を持つからである。では、我々はより詳細に次のことを考えてみることにしよう。即ち、

内なる人間において強化するということ

 ただ思慮の無い魂だけが、自分の周囲の全てのものがどう変わろうとも、自分自身を人生の安定しない気紛れな変化の餌食にしてしまうことに委ね、そのような世界に何の不安もなく、自分自身に対して気遣うこともない。そのような生活はなんと価値の無い、嫌悪を催させるものではなかろうか。そのような生活は、万物の霊長であるという人間の高い使命[=規定]を証するということからなんと遠く隔っていることであろうか。というのは、人間が統治するというのであれば、この世において秩序があらねばならないからである。このようではなく、人間を如何なる法にも従わない野蛮な力に支配させるということであれば、それはただ人間に関して愚弄するということでしかないであろう。そして人間が統治するならば、その人間自身において、まさに法が在らねばならない。というのは、そうでなければ、統治することなど到底不可能であろう。人間は妨害するか、或いは賢明に統治するか否かを偶然に任せるか、ということになるであろう。もしそうだったなら、人間は万物の霊長であるということからは程遠いのであって、万物の方がむしろ、人間など全く存在しなかったということを願うに違いない。それ故に、人間もただただ人生のより思慮のある省察に集中すると直ちに、万物における連関を確かめようと追求するのである。そして、万物の霊長として人間は、いわば万物に問いを尋ね、万物に説明を強要し、証言を要求するのである。
 ただ自分の魂を世俗的な欲望に耽る者だけが、快楽の煌びやかな奴隷状態を選んで軽愁な不安か重愁な不安から自分を解き放つということができなかった者だけが、ただ刹那の喜びに被造物を抜け目なく巧妙に利用できるということ、被造物に証言させるということで満足しているのである。人間は万物の霊長である。それ故に被造物はこの無価値な長の支配にもなお従うのである。思慮なく生きていると思わず、しかしむしろ全てを理解し、その心の迷誤の中で全てを自分の利益に変えられると思っている、そのような喪失はなんと悲しいことではなかろうか。そのような者が夕刻に空が赤くなるのを見るとき¹³⁾、その者は明日はよく晴れると言うであろう。しかしその者が明け方の空が真っ赤で薄暗いのを見るとき、その者は今日は荒天だと言うであろう。というのは、その者は空の模様について、天気や風について判断するということを知っているからである。それ故に彼は次のように言う、「今日か明日、私はこれこれの町に行き、そこに一年滞在し、商いで儲けよう」¹⁴⁾と。彼は自分の土地を知識をもって耕すとき、彼に何倍もの収穫をもたらすことを計算しているのである。彼の眼は、豊かな作物の眺めを楽しみ、恐らく思わず自分でそれを祝福された実りと呼ぶであろう。彼は急いで自分の穀物倉をより大きく建て増す¹⁵⁾。というのは、古い穀物倉ではこの豊かな作物を包蔵できないということが彼にはたやすく予見されるからである。そのとき彼は安心し、喜び、この現実の世界に生きることを讃美し、そのとき彼は寝るために横になる。しかしその時、次のように言われる。「今夜の内に、私は君から君の魂を要求したい」¹⁶⁾と。――彼から彼の魂を、このことはあまりにも過度な要求ではなかろうか。彼はこのことを理解するのであろうか?問題は豊かな作物に、或いは新たに建てられた穀物層にあるのではない。そうではなくて、――彼が魂を持っているということ――このこと全てに関して彼が恐らく忘れてしまっていたということにあるのである。しかし、純然と何か真剣に人生を観察する者は、自分が長たるような者ではないということ、それと同様に下僕でもないということ、人間は単に動物より思慮深いということだけで動物から区別されないということ、これらのことを容易に認めるのだ。
 ただ全てのより深刻な説明を意気地なく逃げる者だけが、下僕の義務に服することによって主人の責任を負うことに勇気を持たない者だけが、また謙虚さ――支配することを学ぶために服従せんとするところの謙虚さ、そして常に自らが服従する限りにおいてのみ支配せんとするところの謙虚さ――のない者だけが、――そのような者だけが、その者を更に先へ導かずに、しかしむしろ憂さ晴らしとして役に立つような絶え間のない思慮を通して時間を潰している。そうした憂さ晴らしの中で、彼の魂と、理解し意欲するところの彼の能力は霧のように消え¹⁷⁾、焔のように消え去るのである。そのような自己食尽はなんと悲惨なことであろうか。そのような者は、神の共働者である¹⁸⁾という人間の崇高な使命[=規定]を、自分の生に証するということについて、自分の生の内に表現するということからなんと遠く隔たっていることであろうか。
 人間を瞬間よりも年長にし、また人間に永遠を把握させる、あらゆる深い思慮を通して、人間は世界に現実的な関係を持っている。従ってこの関係はこの世界についての、そして世界の一部としての自己自身についての、単なる知識ではありえないということを、人間は確信している。そのような知識は何の関係でもないのだ。その理由は、人間自身がこの知識においては世界に対して無関心であり、そしてこの世界がこの世界についての人間の知識に無関心だからである。世界は人間にとって何を意味し、そして人間は世界にとって何を意味せねばならないのか。人間自身が世界に所属していることによって、人間の内の全てのものが、人間にとって何を意味せねばならないのか。そしてそのものの内にある人間が世界にとって何を意味せねばならないのか。そうした懸念が、人間の魂の中で目覚めるその瞬間において初めて、その時に初めて、この懸念の中で内なる人間を告知するのである。この懸念は、緻密な知識或いはより包括的な知識で鎮められられず、別種の知識を要求する。一瞬たりとも知識のままに留まることがない、しかし所有の瞬間において行為に変わるという知識である。というのは、そうでない場合には、知識を所有しないのだからである。この懸念もまた説明を、証明を、要求する。しかしそれは別種のものである。人間が自分の知識においてあらゆることを知ることができたとしても、しかし、この知識の自分への関係について何も知らなかったため、その者も自分の知識の対象への関係を確信することを目指すその努力の中で証言を要求するのだが、その者は全く他の証言をそこで必要とするということを理解しなかった。その時懸念は彼の魂の内でまだ目覚めていなかったのである。この懸念が目覚めるや否や、その時人間の知識は慰めの無いものとして明らかになるであろう。なぜなら、その中で人間が自己自身の前で消滅するというようなあらゆる知識は、そのような知識によって成就されるあらゆる説明のように曖昧であり、時にはこれを説明し、時にはあれを説明し、そうして反対のことを意味しうるからである。これはちょうど、この種のどのような証言も、それを証言するまさにその時に、欺瞞と謎に満ちており、そしてただ不安を育むだけだというのと同じである。いかにして人間は、そうした知識において次のことを確かめうるのか?即ち、幸運とは神の恩寵であり、かくして人間は敢えてその幸運を喜び、そうして安心して神に身を委ねるのか、或いは、その幸運は天の怒りであり、人間の滅亡がますます怖ろしいものとならなければならないというように、ただ地獄の深淵を人間に対して欺いて隠しているだけなのか、そのいずれかであるかを。いかにして人間は、そうした知識において次のことを確かめうるのか?即ち、不運とは、それによって人間が押し潰されるようにという天の罰なのか、或いは人間が誘惑の[=試煉の]苦境の中でも、率直さと信頼で、愛に考えを巡らせるようにならなければならないという、人間をその試煉の中でも愛し給う神の愛であるのか、そのいずれかであるかを。いかにして人間は、そうした知識において次のことを確かめうるのか?即ち、神が人間を神の選び給いし器として¹⁹⁾愛し給うたからこそ、人間はこの世の中で高い位置に置かれ、そして人間に多くのことを任せ給うたということなのか、或いは、人間が人々のための格言となり、他の人々に対する警告、恐怖となりうるからなのか、そのいずれかであるかを。というのは、人間の知識は、全てが彼の前で成功し、全てが彼の後に従い、何もかもが彼の思い通りになり、彼の示すものは何もかも彼に与えられるということ、これらのことを恐らく人間に確信させうるであろうし、また、全てが彼の前で失敗し、全てが裏切り、人間に不安を感じさせるような怖ろしいこと全てが、次の瞬間において人間に襲い掛かってくるということ、それにまた人間が他に較べる者のない高い信頼を得ているということ、これらのことをも恐らく人間に確信させうるであろう――が、この知識はそれ以上のことを人間に教えることはできないのだ。このような説明は極めて曖昧であり、このような知識は全く慰めのないものなのである。

(以下続く)

【註】
1)『コリント後書』4章16節
2)『ガラテヤ書』1章15節以下、及び2章2節
3)『ペテロ前書』2章20節参照
4)『テモテ後書』4章9-16節
5)『コリント前書』9章1節
6)『コリント後書』6章10節
7)『エペソ書』3章13節
8)『マルコによる福音書』2章20節
9)『コリント前書』9章26節
10)『コリント前書』1章23節
11)『マタイによる福音書』15章31節、『使徒行伝』14章8-10節
12)『マタイによる福音書』9章33節、15章31節
13)『マタイによる福音書』16章2節以下
14)『ヤコブ書』4章13節
15)『ルカによる福音書』12章16節-21節参照
16)『ルカによる福音書』12章20節
17)『ヤコブ書』4章14節
18)『コリント前書』3章9節
19)『使徒行伝』9章15節

【参考文献】
原文:Søren Aabye Kierkegaard “Tre opbyggelige Taler” 1843 Søren Kierkegaards Skrifter(原文サイト)
邦訳:飯島宗享 編『キルケゴールの講話・遺稿集1』新地書房 1981 福島保夫訳「三つの建徳的講話(1843)」


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