noteを始めたきっかけについて

たまにみる「note」というものを、その実態を、特徴を、私は知らなかった。
今も、知らない。
ブログと何が違うのか、も、私にはいまだにわかっていない。

ひとつのきっかけで、noteのアカウントをとってみようと思った。
ブログのアカウントも持っているけれど、なんとなく“新しく始めたかった”というのも、あったのかもしれない。
ここで、自分がnoteに文章を書いてみようと思ったきっかけを、記録したいと思う。

 
2020年7月23日、ALSの方の嘱託殺人のニュースが、世間をざわつかせた。
いろんなニュースが次から次へと出てくるので今はもうそんなに意識にのぼらないひとも沢山いるだろうけれど、今でも私にとっては、鮮烈なままでいる。
あれからずっと、このニュースが自分のなかでうごめいている。

訪問入浴という仕事をするようになってから、ALSの方、に限らず、自分ひとりでは日常生活が営めない方と、よく接するようになった。ALSの方についていえば、訪問入浴の仕事を始めてから、病院で看護師してた時よりもずっとずっと沢山の方に出会ってきた。
日々、出会っている。
あのニュースが出てから、ALSの方に接するときも、他の方と接するときも、仕事してないときも、なんとも言えない気持ちで、しんどかった。

嘱託殺人をしたひとを擁護し、死ぬ権利を叫ぶ言葉に、私は、目を耳を塞ぎたくなった。
普段、“想像力”というものは大切だと思っているけれど、そこにあるのは身勝手な想像にしか見えなかった。
「私でも、死にたいと思うだろう。」
というような言葉がどれだけの鋭い刃であるかを、想像したことがあるか。
これも、私の勝手な気分ではあると思っている。

しばらく、私は悶々としていた。
けれど、特に何かきっかけや救いの光に愛されたわけでもなく、ふと、思った。

死ぬ権利を叫ぶなら、その前に、生きる権利を豊かに、と思う。
“生きること”と“死ぬこと”は上下関係ではないし、なんなら同じことだと思っているけれど、それでも、だ。
誰かの「死にたい」は、他の誰か、ひいては社会の、「生きている価値がない」という視線からの影響はないと言えるか?

 
私はそうツイートした。
拙いなとは自覚しつつ、自分はこういう気持ち/思考なんだな、それでええやん、と、やっと思えたのだった。

 

そう思えたタイミングで、私は、敬愛する作家、内藤礼さんの展示を観た。
"生きていることは、それ自体、祝福であるのか"
という命題をもち、それに静かに強く「イエス」と言っているようにみえる内藤礼さんの作品に、すごいタイミングで出会えたものだなと思った。
最初の作品をみた、認識した瞬間から、涙が止まらなかった。

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拙くても、未熟でも、言葉にすることは大事だなと思う。
だから、ひとと会って、又は電話やメッセージで、会話することに希望をみたりもするんだろう。か。
わからない。
わからないけれど、私は、これをきっかけに、noteに文章を書いていこうと思った。

 
自分がみてきた生と死。
これからも出会う、生と死。
生きることと死ぬことは、同じことだと思っている。
そのひとかけらひとかけらを、想像を絶するほどに“それぞれ”でしかないその生と死を、そこに寄り添うひとたちの姿を、そこにたまたま居合わせた自分の気分を、振り返ったり、タイムリーに記録したりできたらいい。
看護とはすこし関係ない、日々思うことも、記録していきたい。

まあ、すべては関わり合っている、つながっているものだと思っているので、区別できることでもないかもしれないなあ。



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これは、友人が撮ってくれた、病院で看護師をしていた時の写真。はじまりの気分にあわせて、貼り付けておく。

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