クラウドトーク会 001 楽しい子供時代
初回のトーク会が無事に終わった。参加してくれた皆さん、ありがとう。最高人数は一時的に八人で、ちょうどいい感じの人数だった。時間は一時間だったけど、結構深い話までできた。後の飲み会は夜遅くまで続いたみたいだけど、夜は寝る派だから参加しなかった。
昨日の議論には、他に二人の主要メンバーがいた。一人は森小の先輩で、もう一人は人本キャンプで六年間リーダーを務め、宜蘭人文で二年間教えていた友人だ。また、意見を共有してくれたのは、東華大学の同級生二人だ。残りは耳だけの参加者と入ってしまった人々です。
楽しい子供時代、あるいはアドラーが言う「一生を癒す子供時代」、もしくは職場での議論で出てくる「自分を支える子供時代」について、自分の小学校時代を振り返って感じたことだ。今のフェイスブックのプロフィールに書いてある「円満を信じる」は、高校時代に森小での五年間の経験を振り返ってまとめたものだ。そんな円満な経験は、人生がどんなに挫折しても、再び立ち上がる勇気の源になる。心の中で「円満」は実現可能だと信じているからだ。雨の後には必ず晴れが来ることを、私たちはその広大な青空を見たことがあるからだ。
円満な子供時代を構成する要素は何だろう?
一日中ゲームをする子供時代も楽しいかもしれないが、私にとってそれは「円満」とは言えない。私もかつてはゲーム+テレビっ子で、休日は起きている時間のほとんどをゲームとテレビに費やし、不本意ながら食事を取るという生活だった。これは、振り返って力を与えてくれる子供時代ではない。
私のまとめでは、安心感のある環境が主な条件だ。評価されず、批判されず、比較されず、大人ができるだけ権威を使わず、できるだけ理解し、コミュニケーションし、包容する、自由に自分を表現できる環境が、円満な子供時代を成し遂げる重要な要素だ。
「自分がその中にいる人間として、どうやってこのことに気づくのか?」と聞かれたが、これは魚が「水」の存在に気づくのと同じで、あまりにも当たり前のことなので気づくのは難しい。例えば、私は先生を「先生」と呼ばないことや、授業をサボれることに何の特別な意味があるのか、長い間気づかなかった。
最初に気づいたきっかけは、TEDxの準備をしている時に、システム内出身の人々に「人生で一度でもカンニングをしたことがありますか?」と尋ねたことだ。その結果、100%「ある」という答えが返ってきた。しかし、システム外の同胞たちは、ほとんどないだろうと思う。なぜなら、安心な環境では偽装する必要がないからだ。
テーマが「子供時代」なので、私たちは多くの議論を「個人的な経験」に集中させた。また、全人中学や清水小学校の経験を聞きたいという声もあったが、それは少し「子供時代」から外れるため、今後の議論に期待する。
では、「円満な子供時代」がない場合はどうだろう?人生は終わりだろうか?ない場合、教育現場で実践できないのだろうか?経験がないと想像できないのだろうか?私たちのチームの中に「円満な子供時代」を持つ人はどれだけいるのだろうか?
ある人が採用した方法は「排除法」で、つまり「自分の子供時代の悪い経験/嫌だと思うもの」をすべて排除することだ。また、子供時代以外にも人生には他の重要な経験が起こり得ると言う人もいる。「排除法」から発展するのは、教育の可能性を見出す道だ。例えば、人本の場合、「体罰の禁止」や「権威の放棄」など、基本的な価値観に基づいてこれらの手段の不正当性を理解し、より適切な教育戦略を発展させる必要がある。以前の教師は「体罰しないと教えられない」と言うかもしれないが、実際にはコミュニケーションができないだけだ。「排除法」を使用する友人の基本的な価値観の一つは「子供をコントロール/強制しない」ことだ。念能力の制約と制限と同じように、これらの制限があることで、より強力な力を発揮できるのだ。
教育現場に戻ると、多くの場合、いわゆる教育の困難は教師が強い「目的」を持っている時に発生するようだ。例えば「何を教えるか」などだ。これらの目的が達成しにくいほど、焦燥感が増し、暴力的な解決方法に傾きやすくなる。しかし、根本的にはこれらの目的はどれほど重要なのだろうか?
もう一つ時間をかけて焦点を当てなかったのは、コストの問題だ。森林小学校は円満な小さな世界として、実際には高額だ。このような小さな世界や理念を日本で再現したい場合、どのように評価し、設計を考えるべきかも非常に重要な問題だ。
次週はコストに関する問題を話すべきかもしれないが、この問題は重要であるにもかかわらず、あまり話すモチベーションが湧かない。それに比べて、コストが限られている時に生じる選択と価値観の方が重要に思える。だから次週は「教育理念」について話したい。
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