「Polite Lies」を読んで

最近、ある人からこの本を紹介してもらった。

「Polite Lies」(悲しい嘘)著:キョウコ・モリ

この本は最近考えていた一つのテーマに対しても書いてあったので、また一段と考えが深まった。その考えについてはこちらを参照。

と同時に、この本に書いてあることをぜひ知ってもらい、考えるきっかけになってほしいと思って今回は文章を書いてみることにした。以下、この文章で書いてあることに対する私の考えを書いてみたので、本を読むのが面倒な方はちゃちゃーっとスクロールしてみてください。

作者は日本・神戸で生まれ育ち、12歳で母親が自殺し、神戸の私立女子高校を卒業後渡米後、アメリカで暮らすようになる。

作者が二つの文化の中で生まれ育ってきた中で感じた違和感を、自身が経験した母親の自殺によってもたらされた家族との軋轢や、アメリカで出会ったパートナーとの結婚生活、友達関係、日本社会での経験等を交えて書いている。

この本は一貫してアメリカ文化と日本文化を比較しながら、悲しい嘘をつくようになってしまった日本の文化に対する批判を書いているように感じられる。

私的には、この本をぜひ英語で読むことをおすすめしたい。その理由は、この本の内容と絡んでくるが、英語と日本語の翻訳はどうしてもニュアンスがはっきり伝わらないことがあるからでる。作者が英語で書いた文章をそのまま読むほうが、味わい深いものになるだろうと私は思う。エッセイなので内容はシンプルで、単語もそんなに難しくないので英語に触れる機会だと思ってぜひ手にとってみてほしい。

またこの本を通して本のすばらしさを改めて感じた。それについてはこちら。

ではこの本で読んだことに対して、いくつか考えていこうと思う。

1.日本語が日本人という存在を作り出している

・文頭の「すみませんが」

日本人はやたらと「すみません、すみませんが」をつけがちである。お店の人にもすみません、手土産をいただいてもすみません。お店の人に対しては忙しい中すみませんというニュアンスなのだろうか、手土産に関しては、気を使わせてごめんなさいといったところだろうか。

海外では、Excuse me, Thank you だろう。

本当にへりくだり精神が強い。

・敬語文化

敬語はやっかいだ。長い。「ありがとう」が「ありがとうございます」になる、文字数二倍だ。敬語がなくなれば部下から上司への意見はもっと増えると思う、オーストラリアで働いてみて、本当に思ったこと、上司と部下という関係性はフラット、友達のように会話をする。最終決定がどこにあるかという違いなだけで、それまでは基本的にそれぞれが自分の意思決定で行っている。

とはいっても敬語がなくなったらいいのにというシンプルな考えには至らない。韓国では年上の方を敬うことが大事である。それが尊敬の念を表すことになり、日本以上に尊敬語を使う機会が多い気がする。敬語というものが、やっかいなのは事実だが、それがなくなっては自国の文化を尊重していないような気になってしまうので、迷いどころである。

私自身、上下関係を大事にしながら生きてきたし、上下関係があったからこそ学べたものもある。たとえば、部活動で上下関係があったおかげで、全体を見て今何が必要かを考えて動く力が付いた。

このトピックは難しい。また考えてみたいと思う。

・隠喩

日本語は裏の意味を読まなければいけないときが多々ある、ストレートでない。英語を日常的に使うようになってから自分の主張をしっかりできるようになった。英語では、言いたいことを先に言って、そしてのちに修飾する。この構造のおかげで、私は相手が聞きたいことに関して真っ先にこたえようとする。そのおかげでまわりくどいことは後にして、先に自分を表現することができる。これは英語を使うことが好きな理由の一つだ。

2.日本の教育

日本では授業中に質問することや、先生の意見にたいして議論を申したてることがない。質問等をすることで、授業の邪魔、友達が集中して聞いていることを邪魔してはいけないと考えられているからだ。

?を投げつけ解決する機会が与えられず、周りの邪魔をしてはいけないという変な執着に取りつかれているのだ。

今思い出せば、高校の時にアメリカでの高校の授業に参加したとき、授業中質問が途絶えなかったことを覚えている、先生よりも生徒の方が話していることが多いのではないかと思ったくらいだ。そのおかげで、授業中に寝ている子を見ることはなかったし、みんなが先生の話をとても興味深く聞いているのである。教育は本来、子供に学びの楽しさを教えてあげるものではないだろうか。自由に学びに参加させることが、その楽しさを倍増させるはずなのに、周りを気にするがゆえに、自由に楽しむどころか、違うところに気がとられている日本の教育は問題だなと思った。それもそのはず、日本人は公式を使うことにはたけているが、証明はできないといわれる所以だろう。

日本の大学に関して言うと、基本的に入学試験を受けてからじゃないと入学できない。そのため、高校卒業した直後に入学し学問を学ぶことが一般的だ。オーストラリアの大学に来てびっくりしたことの一つは、本当にいろんな年齢の人が学問を学んでいるのだ。試験という試験がないゆえに、学問に触れたいと思えば、誰でもいつでも学べるのだ。それが学びの自由を保障し、たとえば主婦になってからでも新しい学びを得られることができるのだ。その一方で、日本では社会に出て、女性が大学に戻ることはあまり見られない。主婦になってから、育児に仕事にと、学びの機会が与えられていないように感じる。家庭を置いて、何をしているのだというような調子かもしれない。

固定観念がこの状況をさらに変化させにくいものにしている。本当に、自分がしたいようなことを自由にできることを促進する社会になればいいのに。


3. 結婚、女は家にいる考え方

この本で結婚について書かれていたので、自分の結婚観を考えてみる。

私は結婚しても、自分の夢を追い続けたいし、しっかり働きたい。結婚は通り道であって、いつ何が起きるかわからないし、自分の人生は自分が主人公だと思う。そのため、結婚後に旦那のためにすべてを放棄することはできない。

もちろん、旦那に歩み寄る、合わせることは必要だと思う。パートナーとは人生を共に歩んでいくことになるから、ある程度は放棄するものもでてくるかもしれない。しかし、自分のすべてをゆだね、放棄しなければならない状況が来たら私は自分自身の人生を歩むだろう。

実家が典型的な亭主関白のような感じなので、旦那さんが「主人」で、奥さんが「家内」であり、旦那さんを立てるべきだと思っていたし、それに関して違和感を抱いたことはなかった。でも今考えればおかしい気もする。父が悪いということを言いたいのでは一切ない。母がすべてを放棄しているとも思わない。昔からの社会制度だったり、ジェンダーに対する社会的見方がそのような家庭をいっぱい生み出したのだろう。

しかし、これからの時代は男性女性という区別はあっても、その違いからの機会の数が違ってはいけないと思う。すべての人が自分自身の人生を生きることが出くればいいなと思う。

この本が書かれたのが遠い昔だから、今の時代は結構変わってきていると思っていたが、最近聞いた話でまだまだだなとおもったので、ここで紹介しておく。

ある女性社長が、銀行に融資をお願いしに行った時、まだその事業がちいさかったからか、銀行の人に融資を断られた。その女性社長は思い切って、「私が男性だったら融資していますか?」と。そして、銀行員は、「もちろん、女性が経営するのは難しいだろうから」といったそうだ。

これを聞いた時、すごく憤りを感じた。女性だからという理由で、融資をことわられ、女性の夢は遠ざかった。

こんな世の中、悲しい。


3.日本の慣習

・泣くとき、ハンカチを差し出すか、そっとしておくか

悲しいことがあったとき、友達が泣いていたとしよう。アメリカの文化ではハンカチを差し出し、寄り添って話をきくらしい。

日本ではどうだろうか?泣いている姿を相手に見られることは恥ずかしいことだから、そっとしておいてあげよう。相手のプライドを傷つけないように。こういう考えをする人は少ないと思う。

これって親切なようで不親切なような気がしてきた。悲しんでいる人を見て見ぬふり。

多分泣いている本人も、相手に心配をかけないようになきやまなければいけないと思っているかもしれない。

「自分の気持ちを内側に抑えようとしているだろうから、これ以上踏み込んではいけない。」こういう風に思うから、そっとしておくことが正しいことのように思える。

確かに、これは相手を配慮しているといえるだろう。

しかし、問題の根本は、泣くのをこらえる必要があるだろうか?ということである。前にも書いたが、怒りをおさえることも同様で、自分の気持ちは内側に抑え込む必要はないと思う。恥ずかしがる必要もないと思う。

「自分の気持ちに正直になること」、「自分のことをありのまま表現すること」よりも、「周りに気をつかうことが大事」とみなされてきた日本では、どこで自分を表現することができるだろうか?

いろいろ書いてきたが、私が言いたいことは、人々それぞれ違うことが許容される社会では、自分を表現することが自分の幸せにつながる。逆に許容されない社会では、それが人を殺してしまう。

でも本質的には、相手を気にして自分の表現を抑えることは、面倒以外のなんでもなく、自分を表現することが自分の幸せにつながることは自明じゃないだろうか。

ということで、人々は当たり前に違うから、自分を表現することはいいことなのだということを人々に伝えていきたい。

ここからは自分と絡めて書いていく。

この本を読めば読むほど、すごく心がすさんでいくようだった。と同時に、何か希望を見つけられたような、前向きな気持ちにもなっていった。とても矛盾しているように思えるが、これはまさに本音である。

まず心がすさんでいった理由は、作者が批判していることが自分に当てはまることがとても多かったからだ。私は周りのことを気にして、自分の主張をすることを恐れ、Polite Liesをつくことで、相手への配慮につながると考えていた。Polite Liesをつくことに悪気はなく、むしろ、Polite Liesは社会で生きていくマナーとして必要だと思っていた。実際に、周りにもPolite Liesをつく人達が比較的多い社会にいたから、Polite Liesをつくことが悪いことだとは一切思っていなった。

しかしこの本を読んで気づいたのだが、Polite Liesをつくのは相手を軽視しているからかもしれないということだ。もっと言うと、自分が周りと違う意見を持っていた場合、相手は自分のことを理解してくれないだろうと勝手に思い込み、Polite Liesをつくことによって自分を取り繕い、周りの中に自分を沈み込ませていくのだ。つまり、自分にも相手にも正直になれず、周りと合わせた生き方をしてしまうようになる。そして、周りに溺れた結果、自分を見失ってしまう。

私たちにとっては、自分の主張をすること、Polite Liesをつくことなく、正直に生きていくことは少し勇気がいるかもしれない。学校という狭いかごの中で、独創的なアイデアをもって、自由奔放にふるまう子が責められ、型にはまった勉強をし、それが得意な子が、ほめられる、このかごの中で育てられた私たちには、かごから出てみることは勇気と不安が伴う。

しかし、社会は学校よりも何倍も大きく、自由で、可能性が無限に散らばっている。私たちは将来、かごの外にいきなり放し飼いにされるのだ。

この時、本当の力が試されると思う。かごの外の自由な世界では、自分の主張、意志が自分をはばたかせてくれると思う。その時いまだに周りに合わせる自分でいたら、可能性は広がらないだろう。そこにはもう、おさまるかごはない、あったとしても私は決して入りたいとは思わない。かごの中での生活は窮屈だろうから。

主張をすることで、自分を表現する。自分を表現することで、自分に正直になる、自分とそして相手に正直になることで、自分を認められるようになり、相手も認められるようになる。という風に私は考える。

これが私がこの本を読みながら、前向きになれた理由である。自分のかねてからのコンプレックスであった、自分への正直さ、相手への正直さとどう向き合い、どのように克服することができるかということを気づけた気がしたのである。

そうゆう意味で、この本との出会いはとても大きかった。自分との向き合い方を教えてくれただけでなく、自分が考えていたトピックに対して、いろんな角度からの疑問の種をまいてくれたため、またいろんなことを考えるきっかけになった。

夏休みの宿題での読書感想文はいつもネットでのレビューを微妙に変えて書いていた私が、一つの本に対してこんな考えを抱くことができるようになったことに自分でも驚いている。(読書感想文と絵画はほんまに苦手分野笑)

この本を紹介してくれた人にはとても感謝だし、これからもいろんな本を読みたいと思った。

なのでまたおすすめの本がある方は教えてくださいな。







この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?