アンドリュー・ナマエスキー 物語編

 「名前」を眺めているのが好きです。

 音の響きはもとより、そこに名付けの物語があって、名前に付随する物語があって、名前が残されていく物語があるところが好きです。

 創作作品にせよ現実にせよ、ある組織のメンバーであったり、参加者などの名前一覧を眺めている時が1番楽しいと言っても過言ではありません。

 どんな理由でこの名前を持っているのか、この名前でどんな物語を紡いできたのか、この名前は今後どのような物語として語り継がれていくのか。

 記された名前からさまざまに想像したり、実際に知ったりするのが楽しいです。

 ふと思い出したのは実名報道の可否が話題になった時のことです。

 名簿を眺めるのが好きで、部活の試合の時などは参加者が列記された冊子を読むのが試合よりも楽しみだった時期もあったくらいの僕ですが、事件の実名報道については反対の立場でした。

 せっかく大好きな「名簿」が見られる機会だと言えるのに、見たいという感情が全く湧かなかったのです。

 「名前」の所有者は一体誰なのでしょう。

 名付けられた本人は当然ですが、名付けた人もまた、その名を「持っている」ような気がします。

 名付けに至るまでの試行錯誤紆余曲折は一つの物語です。

 名前の物語の一つとして名付けの過程があるならば、その時の主人公は名付け主です。

 つまり、託された時から名前は名前の主の所有物になりますが、託されるまでは名付け主のものと言えるはずです。

 名付け主は「名前」の元の所有者として考えることができるでしょう。

 遺族が名前の公表を拒否しているという情報が、当時好評の是非が話題になったときにありました。

 それでも必要だということで公表に踏み切られたというような経緯があったと記憶しています。

 元の所有者である名付け主が拒否しているというところに、それでも見たいという感情が働かなかったのだと思います。

 確かにこういう人たちが生きていて亡くなってしまったという事実を伝えるためには実名が必要だったでしょう。

 実名なき犠牲者報告は、ただの数字になってしまいます。

 数字だけでも印象に残ることはできるでしょうが、数が多くなればなるほど数でしかないものになってしまい、それが意味するところをイメージしにくくなります。

 その一つ一つには長い物語があるはずなのに、名前が出ないということだけでただの数字になってしまうのです。

 報道機関がそう考えていたのかどうかはわかりませんが、この事件の犠牲者をただの数字で終わらせるべきではないという使命感はあったのかもしれません。

 しかし、名前好きを標榜する僕であっても、あの時は遺族の方達の感情を優先したいと思っていましたし、今もなお、そっとしておいてほしいという意思は尊重されるべきではなかったかと思っています。

 話がそれましたが、名前は時に物議を醸すほど強力な力を持っています。

 指示を受ける時も、お前や、君などの人称代名詞よりも、名前で呼ばれる方が従いやすいはずです。
 
 真名を知られると言う事は支配を受け入れる事だとする設定を持つ創作も多々あります。

 あえて固有の名前を廃して自分時事の物語として読んでもらう創作の手法もありますが、やはり僕は、自分以外の誰かがそこにいたということが感じられる物語がより好きです。

 名前は付けてもらう前提で書いてきましたが、自分で名乗ることもできます。

 その場合、かつて付けてもらった、あるいは付けられたと解釈するべき名前を捨て、新たな名前をつける。この行動そのものにも物語が生まれています。

 名前あるところ物語あり。

 僕が「名前」と言うものに興奮……もとい面白さを感じるのはそういうところです。

 蔑称のように、いわゆる排斥の物語を含む名前もあり、不用意に面白がって触れるべきではないものもあるのはもちろんとして、その名前が持つ物語そのものを純粋に知りたいと言う思いがあります。

 これから自分はこの名前にどのような物語を付け足していくのか。これからどのような物語を持つ名前に出会えるのか。

 これからもそれを楽しみに生きていきたいと思います。

 それではまた。


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