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【古代オリエント16】 アケメネス朝⑵ 〜世界帝国の完成者〜

 アケメネス朝ペルシアの2回目は…

 キュロス2世が基盤を築き,カンビュセス2世がエジプトまで拡大したペルシア帝国を,真の「世界帝国」として完成したとされるダレイオス1世の事績を追います。

 そして,その中で帝国のしくみの大枠を捉えていきます。

1) ダレイオス大王とは何者か?

▶︎ ダレイオス1世即位の謎

ダレイオス1世の即位式(ペルセポリス/イラン)
ダレイオスはカンビュセス2世の近衛兵としてエジプト遠征に同行していた。
その即位は前522年とされる。

 エジプト征服を達成したカンビュセス2世は,3年間のエジプト滞在後,前522年にペルシア本国への帰途,謎の死を遂げます。

 その後を継いだのはダレイオス1世とされ,彼をアケメネス朝第3代大王とするのが一般的ですが,実はこれには諸説あります。

 ダレイオス自らが彫らせた碑文(ベヒストゥーン碑文)には,大王即位について,次のような事情が記されています。

  • カンビュセスには弟(バルディア)がいたが,エジプト遠征直前,カンビュセスによって秘密裏に暗殺された。

  • ある神官が暗殺された王弟になりすまし,王母や王妃を騙して反乱を起こし,カンビュセス死後,王位についた。

  • ダレイオス1世は,仲間と謀ってその偽王を討ち,王に即位した。

 この碑文については,カンビュセスが弟を暗殺する理由が希薄なことや,赤の他人の神官が近親者まで騙して王位につくのは現実的ではないという疑問があり…

 実際には,王弟がカンビュセスの留守中に(あるいは兄王を暗殺して)王位を奪ったため,カンビュセスの近衛兵だったダレイオスが王弟を討って即位したのではないか,という説が唱えられています。

 その場合,カンビュセスの弟バルディアが第3代で,ダレイオスは第4代ということになります。

 いずれにせよ,ダレイオス1世はキュロス・カンビュセスに連なる王家の直系でなかったことだけは確かです。

べヒストゥーン碑文(イラン)
地上66mの位置にある磨崖碑で,
ダレイオス1世が自らの即位の経緯や王位の正統性を誇示するために彫らせた。
古代ペルシア語,エラム語,アッカド語で岩に彫り込まれている。


▶︎ 実際のアケメネス朝初代王?

 ダレイオスがバルディアを討った後,エラム,バビロン,メディア,ペルシアなど帝国内の各地で,王を名乗って反乱を起こす者が続出します。

 ダレイオスは4年ほどかけて,これらの反乱を平定したのち,それまでの経緯を公的な記録として,ベヒストゥーン碑文に刻ませました。

 碑文によると,キュロス・カンビュセスの王家とダレイオス1世の一族には,5代前に共通の祖先であるアケメネス(ハカーマニシュ)がおり,その子のテイスペスから分岐したことになっています。

 しかしながら,テイスペス王家の王の名がエラム語起源と考えられる一方で,アケメネスやダレイオスの家系の頭首名は古代ペルシア語であり,同じ一族とは考えられないという見解があります。

 つまり「アケメネス」を始祖とする家系自体,王位を奪ったダレイオスが,自らの王権を正当化するために捏造したものではないか,という解釈が成り立つわけです。

 この説に従えば,キュロス・カンビュセスはアケメネス朝の王ではなく,アケメネス朝はダレイオス1世を初代として始まったことになります。

 ダレイオス1世は,キュロス2世の王女やバルディアの娘ら3人とあいついで結婚し,姻戚として王家の正統と結びつきます。

 そして,キュロスの娘が産んだ息子クセルクセスを早くから後継者としたため,結果としてテイスペス王家の血統は引き継がれることになります。

2) 世界帝国の完成

▶︎ 中央集権のしくみ

ダレイオス1世時代の版図(再掲)

 大王となったダレイオス1世は,キュロス・カンビュセスが築いた国家の枠組みに「世界帝国」にふさわしい内実を整えました。

 帝国内部の各地方は,自治権を持つ約20の州(サトラペイア)に分けられ,王が任命する総督(サトラップ)が支配しました。
 サトラップに任命されるのは,ほぼペルシア人に限られていました。

 サトラップは,毎年決められた貢納を課せられ,戦争の際は軍隊を率いて参戦する義務を負いました。
 しかし,地方ごとの独自の伝統や文化は尊重され,自由に統治することが認められました。

 このしくみはキュロス・カンビュセス時代に始まった制度を,ダレイオスが再整備して完成させたものと考えられています。

 そのほかに,ギリシア語で「王の目」「王の耳」と呼ばれた王直属の監察官が派遣され,常にサトラップを監視していました。

 一方,広大な帝国を効率的に統治するためには,交通インフラの整備が欠かせず,「王の道」と呼ばれる道路網が整備されました。

 ギリシアの文献には,アナトリア総督区のサルディスから帝都スサにいたる道路が紹介されており…
 その全長は2400kmに及び,20〜30kmごとに111か所の宿駅が設けられていたとされます。

 この道程に普段は約90日かかりましたが,非常時には,馬を用いたリレー方式の急使が7日間で駆け抜けたとされます。 

▶︎ 5つの主要都市

 ギリシアの文献では,帝国の首都はスサであったとされますが,実際には,大王は季節ごとに各地を移動しながら統治していました。

 例えば,冬はメソポタミアのバビロン,春はエラムのスサ,夏はメディアのエクバタナというように移動し,その時宮廷のある都市が首都として機能したのです。

 また,新しい大王の就任式を行う都市として,キュロス2世が建設したパサルガダエがあり,さらに,ダレイオス1世が建設を始めた新都ペルセポリスも重要な都でした。

 ペルセポリスの建設事業は,ダレイオスの孫のアルタクセルクセス1世の代まで3代にわたって続けられました。

 この都の役割については,宗教祭儀を行う都だった,あるいは広大な帝国を支配する王権を誇示する場だったなど,諸説があります。

ペルセポリス(イラン・ペルシア州)
帝国の儀礼的中心として,毎年,春分の日に新年祭が行われたと考えられている。
各地から収められた貴金属等を収蔵する宝物庫もあった。
アレクサンドロスの遠征軍に放火され破壊された。

▶︎ 古代ペルシア語の文字化

 広大な帝国を統治するためには,遠隔地とのやり取りにおいて,文書による伝達が不可欠でした。

 新アッシリアからアケメネス朝へと続く時代は,楔形文字による粘土板文書から,アルファベット表記を用いたパピルス文書への移行期でした。

 特にアルファベットで表記するアラム語がパピルス文書には広く用いられましたが,各州の共通語はまちまちで,古代エジプト語やギリシア語が州内共通語となっている地域もありました。

 一方,古代ペルシア語はもっぱら話し言葉として用いられ,ペルシア州でさえ,文書語としてはエラム語やアラム語が用いられていたのです。

 そこで,ダレイオス1世は,ベヒストゥーン碑文などの磨崖碑を彫るため,古代ペルシア語を楔形文字で表記する方式を導入しました。

 ベヒストゥーン碑文は,エラム語,アッカド語とともに古代ペルシア語を用いて,楔形文字で彫られています。

 しかし,この古代ペルシア文字は公的な碑文以外には浸透することがなく,アケメネス朝の崩壊とともに忘れ去られます。

▶︎ アフラ=マズダ信仰とゾロアスター教

有翼円盤人物像(ペルセポリス/イラン)
翼の生えた円盤の表現は,古くからエジプトやメソポタミアで見られる。
中央の人物像は神アフラ=マズダとする説が有力。

 ベヒストゥーン碑文には,ダレイオスが神アフラ=マズダによって選ばれ各地の反乱を鎮圧したこと,ペルシア王はアフラ=マズダから帝国の統治をゆだねられたことなどが記されています。

 アフラ=マズダはゾロアスター教において善の神とされるため,アケメネス朝の国教はゾロアスター教であると考えられたこともありましたが…

 ギリシアの文献から,開祖ゾロアスターは前6世紀以前の人物であると推定される一方で…
 現在知られるゾロアスター教は,ササン朝時代の4世紀以降にまとめられた経典「アヴェスター」に基づく教えで,この間,約1000年もの開きがあります。

 また,アケメネス朝の王碑文等の文献にはゾロアスターの名が全く登場せず,当時のアフラ=マズダ神の性格もよく分かりません。

 つまり,アケメネス朝のアフラ=マズダ信仰とゾロアスター教が同一の宗教であることが証明できないのです。

 さらに,アケメネス朝時代の信仰形態は一神教だったわけではなく,エラムの神など多くの神々を信仰していた記録も残っています。

 結局のところ,ダレイオス1世がアフラ=マズダを信仰していたこと以外,現状ではよく解っていないというのが実態のようです。

《一口メモ》ゾロアスター教(拝火教)とは
▶︎ 開祖ゾロアスター(ザラスシュトラ)
▶︎ 年代:前6世紀以前(前2000年紀前半から前6世紀まで諸説あり)
▶︎ 発祥地:イラン高原北東端(現カザフスタン南部)
▶︎ 教義:この世は善神アフラ=マズダと悪神アーリマン(アンラ=マンユ)の絶え間ない闘争の場。人間の義務は倫理を重要視すること。火を神聖視。
▶︎ 経典:『アヴェスター
 →現在伝わるものはササン朝時代(紀元後4世紀以降)に編纂。

3) 領土拡大とペルシア戦争

▶︎ さらなる領土拡大

 ダレイオス1世は,国内の反乱を平定した後,各方面へ遠征軍を派遣し,さらなる版図拡大を図ります。

 東方では,前510年代にインド方面へ遠征し,インダス川流域(現パキスタン周辺)を征服しました。
 この征服活動によって,帝国近隣のギリシア人がインド文化に触れる機会が生まれ,ヨーロッパの文明に大きな影響を及ぼすことになります。

 また北方では,中央アジアのイラン系騎馬遊牧民に対して,ダレイオス自ら2度の親征を行っています。

 1度目は前519年で,カスピ海とアラル海の間に住むサカ族(スキタイと近縁)を征服します。

 2度目は黒海の北部に住むスキタイでした。まず,アナトリアを横断してボスポラス海峡を渡り,バルカン半島へ上陸して黒海西岸を北上しました。

 この時は騎馬遊牧民に特有の焦土戦術(後退戦術)に翻弄され,戦果のないまま引き上げることになります。

 しかし,その帰途ヨーロッパに残った将軍が,バルカン半島東部のトラキア地方の征服に成功し,さらに,ギリシア北部のマケドニアに対しても臣従関係を結ばせました。

 アケメネス朝は,オリエント世界を越えて,ついにヨーロッパにまで支配地を拡大したのです。

▶︎ ペルシア戦争開始

古代ギリシアの重装歩兵(想像図)
槍と盾で重装備した歩兵が密集した状態のまま相手を攻撃した。

 前499年,アナトリア西部の都市ミレトスを中心とするイオニア地方のギリシア植民市が,ペルシア帝国に対して反乱を起こします。

 ペルシアは7年かけてようやく反乱を鎮圧しますが,この時,アテネがイオニア側に援軍を送ったことを重くみたダレイオスは,その後2度,アテネに遠征軍を差し向けます。

 前492年の第1回遠征では,本土上陸前に暴風雨に見舞われ撤退します。
 前490年の第2回遠征では,ギリシア本土のマラトンへ上陸しますが,アテネの重装歩兵による密集戦術に敗れ,再び撤退を余儀なくされます。

 2度のギリシア遠征に失敗した後,エジプトで起こった反乱の対応を行うなか,前486年,ダレイオス1世は病没します。

 ダレイオスの墓所は,ペルセポリスの北西約6kmにある「ナクシェ・ロスタム」と呼ばれる巨大な岸壁に築かれました。

 この後,ギリシア遠征(ペルシア戦争)は王位を継いだ息子のクセルクセスに引き継がれることになります。

ナクシェ・ロスタム(イラン)
左から3つ目がダレイオス1世の墓。
断崖絶壁を掘削して作られた横穴墓で碑文やレリーフも彫られた。

《参考文献》
▶青木健著『ペルシア帝国』(講談社現代新書) 講談社 2020
▶︎阿部拓児著『アケメネス朝ペルシア』(中公新書) 中央公論新社 2021
▶︎小川英雄・山本由美子著『オリエント世界の発展』(世界の歴史4) 中央公論社 1997

 


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