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【古代オリエント14】 メディア, リディア, 新バビロニア

 前612年の新アッシリア帝国の滅亡後,オリエントは4つの王国が分立する時代に入ります。

  ペルシア帝国の先駆者ともいわれるメディア王国,世界初の硬貨鋳造で知られるリディア(リュディア)王国,メソポタミア最後の光芒を放った新バビロニア王国,古代エジプト最後の繁栄期とされる第26王朝

 のちアケメネス朝ペルシアに征服されるこれら4王国のうち,一般にあまり知られていないメディアリディア,新バビロニアを取り上げ,その興亡史を掘り起こしておきたいと思います。

アッシリア帝国滅亡後の4王国分立(前600年頃)

1) メディア王国

▶︎イラン系アーリア人の進出

 メディア人ペルシア人は,インド=ヨーロッパ語族(印欧語族)のうちイラン系アーリア人に属します。

 インド・ヨーロッパ語族の原住地については諸説ありますが,中央ユーラシア西部,黒海からカスピ海北方の草原地帯とする説が近年有力です。

 一説に,メディア人は北方からカフカス山脈を越えてイラン高原西北部へ移動し,先にそこへ移住していたペルシア人を押し出す形で定着したとされ…
 押し出されたペルシア人はイラン高原西南部(アンシャン)へ移動したとされます。

<一口メモ> 印欧語族とアーリア人
▶︎インド=ヨーロッパ語族には,母言語(祖語)から分岐した12の語派があり,人種はコーカソイド(白色人種)であったと考えられています。
▶︎最も古い時代に分岐したのはアナトリア語(ヒッタイト語など)とされ,その後,ケルト語,イタリック語,ギリシア語,ゲルマン語,インド・イラン語などが分岐します。
▶︎インド・イラン語を話す人々はアーリア人とも呼ばれ,イラン系アーリア人には,メディア人ペルシア人などの定住民のほか,スキタイ人などの騎馬遊牧民も含まれます。
▶︎アーリア人は前2000年紀に原住地から各方面へ移動を始めたとされます。

参考文献:デイヴィッド・アンソニー著,東郷えりか訳『馬・車輪・言語(上)』筑摩書房 2018
メディアとペルシア
現在のイランの地勢図上に位置を示した。

 メディア人に関する最古の文献は,前9世紀中頃のアッシリアの文書で,ザグロス山脈方面へ馬の捕獲に出かけた折に遭遇したとの記録があります。

 メディア人が移住した当時のオリエントでは,アッシリアをはじめとするセム語族が高度な文明を誇り,強固な国家を築いていました。

 そのため,メディア人部族は,メソポタミア平原など豊かな土地へは移住できず,イラン高原に留まって,先住民を同化しながら部族連合を形成しました。

▶︎部族集団から王国へ

 当初,丘陵地で牧畜やオアシス農業に従事しながら部族連合を形成していたメディア人ですが,周辺勢力とせめぎ合う中で,王国形成へと進むことになります。

 メディア人の居住地は,アッシリア帝国にとっては金属資源や石材の供給地であり,また,中央アジア方面へ抜ける交易路としても重要でした。

 そのため,アッシリアは前9世紀からメディアへの遠征を繰り返し,前713年には,サルゴン2世がメディアの族長45人を打ち負かしたというアッシリア側の記録もあります。

 一方,前7世紀頃からカフカス山脈一帯では,イラン系アーリア人の一派で騎馬遊牧民スキタイ人が勢力を持ち,メディア人が定着したイラン高原西北部へ南下してきました。

 スキタイ人はメディア人と混淆し,やがてメディア部族の一部として王国成立に関わることになります。

スキタイ騎馬兵の想像図
騎馬技術は前10〜9世紀頃,中央ユーラシアの草原地帯で進化した。
馬に乗って矢を射るには高度な技術を必要とし,
騎馬遊牧民に特有の戦法だった。

 一説に,前672年,メディアの族長の一人が,スキタイの援軍を得て独立王国を建国したとされます。王都はエクバタナ(現ハマダーン)に置かれ,アッシリアと対立しました。

 しかし前653年,スキタイの王がアッシリア側に寝返ってメディアを攻撃・征服し,メディアは28年間スキタイの支配下に置かれました。

 前625年,メディアの王族キュアクサレスは,スキタイ王を暗殺し,スキタイ人を一掃して王位を継承。メディア王国の独立を回復します。

 キュアクサレスは部族連合を解体して,スキタイから学んだ騎馬兵と槍兵,弓兵からなる常備軍を配備。さらに,アッシリア帝国に対抗して新バビロニアのナボポラッサルと同盟を結びます。

▶︎周辺諸国との関係

 前612年,メディアと新バビロニアの連合軍はニネヴェを陥落させ,アッシリア帝国を滅ぼします。 

 キュアクサレスは,自分の娘をバビロニア王ナボポラッサルの息子ネブカドネザル2世に嫁がせ,友好関係を維持しました。

 さらに,キュアクサレスは西方へ侵攻し,アナトリア西部のリディア(リュディア)王国と数年にわたって戦争状態になります。

 ある時,戦闘の最中に急に真昼から夜になってしまい,恐れおののいたメディア・リディア両軍は戦いをやめ,和平を結ぶことになりました。
 この「日蝕」は前585年5月28日のものと推定されています。

 この年,バビロニアのネブカドネザル2世の仲立ちで,メディアとリディアは和平条約を締結。キュアクサレスは,リディア王の娘を息子の嫁に迎え入れます。

 こうして,新バビロニア,メディア,リディアは姻戚関係で結ばれ,しばらく均衡状態が保たれました。

 キュアクサレスは征服活動を続け,アナトリア東部からメソポタミア北部を経てイラン高原にいたる広大な国家を築いたとされます。ただ,メディア王国が中央アジアまで支配したという確実な証拠はないようです。

▶︎ペルシアの台頭

 イラン高原西南部のアンシャンを根拠地としたペルシアは,当初,エラム王国の影響下にあったとされ…
 エラムがアッシリア帝国に滅ぼされると,ペルシアは一時アッシリアを宗主国とし,アッシリア滅亡後にメディアの属国になったとされます。

 メディアでは,キュアクサレスのあと,息子のアステュアゲスが王位を継承します。
 一説に,アステュアゲスはペルシアの王に自分の娘を嫁がせ,その娘の産んだ子がアケメネス朝ペルシアの初代王となるキュロス2世とされます。

 この説に従うと,キュロス2世はペルシアとメディア両王家の血統であったことになります。

 前550年(一説に前553年),キュロス2世はメディア王国に対して反乱を起こし,首都エクバタナを陥落させ,メディアを征服しました。

 なお,辺境の弱小国に過ぎなかったペルシアが,オリエント全土を統一する「世界帝国」へと一気に駆け上った要因として…

 先行国家だったメディアの領土基盤や騎馬隊などの軍備,国家制度をそのまま継承したためとする見方があります。


2) リディア王国

▶︎アナトリア諸勢力の攻防

 アナトリアでは,前8世紀後半にフリュギア人が王国を築き,新ヒッタイト諸国と結んでアッシリア帝国と対立しました。

 しかしフリュギアは,カフカスの北方から侵攻してきた騎馬遊牧民キンメリア人に苦しめられ,前709年,アッシリアのサルゴン2世に和睦を求め,その朝貢国となりました。

 一方,アナトリア西岸(エーゲ海沿岸)にはギリシア人の植民市が建設され,ミレトスやエフェソスなどが繁栄していました。

 このギリシア人植民市とフリュギアの間に,アナトリアの印欧語族の中でも古参のリディア(リュディア)人が勢力を伸ばし,前685年,ギュゲスを指導者として王国を築きます。

 前695年(一説に前675年),キンメリア人の攻撃でフリュギア王が自殺に追い込まれ,フリュギア王国は滅亡します。
 リディアのギュゲス王はアッシリアのアッシュル=バニパルの援助を受けて,一旦はキンメリア人を撃退します。

 その後,再びキンメリア人が侵攻した際にギュゲスは敗死し,前670〜前660年代初めには,リディアの王都サルディスはキンメリア人に一時占拠されました。

サルディス市(トルコ)
アケメネス朝の征服後は「王の道」の西の起点となった。
手前の建造物はヘレニズム時代の遺跡。

▶︎リディア最盛期

 アッシリア帝国の滅亡後,第4代リディア王としてアリュアッテス(前610頃〜560年)が即位します。

 アリュアッテスは,宿敵キンメリア軍を撃ち破って,ついにアナトリアから追放し,領土をアナトリア中部まで拡大します。

 さらに,新バビロニアのネブカドネザル2世と講和し,侵攻してきたメディアのキュアクサレスとは戦争状態となります。
(先述の通り,リディアとメディアは前585年の日蝕を契機に和平を結びました。)

 次王のクロイソス(前560〜546年)の時代には,リディアは勢力を強め,イオニア地方のギリシア植民市をすべて征服しました。

 なお,アリュアッテス王の治世には,歴史上初めて金属の貨幣が発行されました。最初のうちは金と銀の合金(エレクトラム)製でしたが,のちに金貨になります。

リディアで鋳造された金貨
前6世紀半ばに発行された金貨。
左にライオン,右に牡牛が彫られている。
(ニューヨーク・メトロポリタン美術館所蔵)

▶︎ペルシアのアナトリア蹂躙

 メディア王国がアケメネス朝ペルシアの反乱で滅ぼされると,リディアのクロイソス王は,新バビロニアやエジプトと同盟を結び,アナトリア東部まで進軍してキュロス2世率いるペルシア軍と交戦します。

 この時は勝敗が決しないまま冬になったため一時休戦。クロイソスは再戦を翌春と見込んで一旦本国へ撤退します。

 ところが,大方の予想に反してペルシア軍はそのまま進軍し,一気にリディアの首都サルディスを包囲して陥落させてしまいます。

 リディア王国を滅ぼした後もアナトリアに居残ったペルシアの将軍は,西岸部のギリシア系都市を次々に征服します。

 この時,ペルシアの臣民となったギリシア人は,ペルシア軍に「海軍力」を伝えることで戦力を増強させ,帝国の領土拡大に寄与することになりました。


3) 新バビロニア王国

▶︎カルデア王朝の成立

 バビロニアでは,前2000年紀末の大飢饉ののち,セム語系アラム人が大挙流入し,前1026年のイシン第2王朝滅亡後は,短命な王朝が交代する混乱期に突入しました。

 前1000〜前900年頃,内政不安定なバビロニアに,アラム人に続いてセム語系カルデア人が侵入し,部族単位で南部に定住します。

 バビロニアでは,シュメール・アッカドの伝統都市に加え,アラム人やカルデア人が台頭し,さらに,域外からアッシリアやエラムが覇権を狙う不安定な情勢となりました。

 前729年,アッシリアのティグラト=ピレセル3世がバビロンを攻略して王位を奪うと,南部のカルデア人勢力がその後1世紀にわたる反アッシリア闘争を開始します。

 アッシリアでアッシュル=バニパルが没した前627年,バビロニアでも,アッシリア傀儡の王が死んで政治的空白期が訪れます。

 この隙にカルデア人部族の王ナボポラッサル(前625〜605)がバビロンの覇権を奪って,新バビロニア王国カルデア王朝)を樹立しました。

 前615年,ナボポラッサルは古都アッシュルを攻撃しますが,これは失敗に終わり,翌年,メディア王国がアッシュルを陥落させると,ナボポラッサルは,メディア王と同盟を結びます。

 そして前612年,新バビロニア・メディア連合軍は,アッシリアの首都ニネヴェを包囲・陥落させ,ついにアッシリア帝国を崩壊させました。

新バビロニア王国の版図
メソポタミアからシリア・パレスチナにいたる地域,
いわゆる「肥沃な三日月地帯」をほぼ勢力下に収めた。

▶︎ネブカドネザルとバビロン捕囚

 前608年,ナボポラッサルは,アッシリアの残党を支援したエジプト第26王朝(ネコ2世)と開戦します。

 前605年,高齢のナボポラッサルに代わって,皇太子ネブカドネザル2世がシリアに派遣され,エジプト軍を撃破してシリア・パレスチナの覇権をエジプトから奪いました。

 この間にナボポラッサルが急死したため,ネブカドネザル2世(前605〜562)が王位を継承。この後,ネブカドネザルの治世は43年の長きに及び,新バビロニア王国の最盛期を現出します。

 前597年,統治下のユダ王国が離反したため,ネブカドネザルはイェルサレムを攻撃し,ユダ王と有力者など数千人をバビロンに連れ去りました。これが第1回バビロン捕囚です。

 前586年には,ユダの傀儡王ゼデキアが反旗を翻したため,ネブカドネザルは再びイェルサレムを占拠。第2回バビロン捕囚を行い,ユダ王国を滅ぼしました
 その後,前581年には第3回の捕囚が行われています。

 バビロニアの捕囚政策は,アッシリアとは異なり,民族を分断せず捕囚民を国別に住まわせ,ある程度の自治を認めました。そのため,ヘブライ人の民族意識や唯一神ヤハウェへの信仰が保たれたとされます。

バビロン捕囚の想像図
19世紀ドイツの画家が描いた木版画。
旧約聖書に記されたバビロン捕囚のイメージ。

▶︎王都バビロン再建

 一方でネブカドネザルは,アッシリアに破壊されたバビロンの復興に力を注ぎました。

 新バビロニア時代はバビロンが最も繁栄した時期とされ,周辺区域を含めた広さは約1000ヘクタールに及び,約10万人が住んだとされます。

 マルドゥク神を祀る神殿には,底辺90m四方,高さ90m・7層の階段状のジグラットが付随し,これが,旧約聖書に登場する「バベルの塔」のモデルともいわれています。現在はその跡だけが残っています。

 また,バビロンの城壁門のうち,1930年代に彩色煉瓦に彩られたイシュタル門が発掘され,ドイツの博物館内に復元されています。

 その他,ギリシアの文献には「バビロンの空中庭園」(未発見)のような壮麗な建築物の記録も見られます。

イシュタル門のレプリカ(イラク)
写真はバビロン遺跡に縮小復元されたイシュタル門。
1930年代に発掘された実物は,ドイツのペルガモン博物館に復元されており,
釉薬を塗って焼いた鮮やかな彩色煉瓦で覆われている。

▶︎古代メソポタミア史の終焉

 ネブカドネザルの死後,政情は不安定となり,6年間に4度もの王の交代があって,前555年,王家との血縁が不明なナボニドス(前555〜539)が王位を奪います。

 ナボニドスは,アナトリアやシリア,アラビアに軍事遠征し,貿易ルートを確保しますが…
 宗教面では,マルドゥク神を差しおいて月神シンを崇拝し,神殿行政にも介入したため,マルドゥク神官団やバビロニア人の反感をかいます。

 そしてナボニドスは,前552年以降,国政を皇太子に任せたまま,約10年間もアラビア半島北西部のオアシス都市テマに滞在します。

 この時期,アケメネス朝ペルシアがメディアやリディアを征服して勢力を拡大したため,ナボニドスはバビロンに戻って対応しようとしますが…

 前539年,キュロス2世率いるペルシア軍の前にバビロンは無血開城に追い込まれ,ナボニドスは捕らえられ,新バビロニア王国は滅亡します。

 この後,メソポタミアの国家がオリエントの主役の座に戻ることはなく,古代メソポタミア史は幕を閉じることになりました。

《参考文献》
▶青木健著『アーリア人』(講談社選書メチエ) 講談社 2009
▶青木健著『ペルシア帝国』(講談社現代新書) 講談社 2020
▶︎阿部拓児著『アケメネス朝ペルシア』(中公新書) 中央公論新社 2021
▶︎大貫良夫・前川和也他著『人類の起源と古代オリエント』(世界の歴史1) 中央公論社 1998
▶︎小川英雄・山本由美子著『オリエント世界の発展』(世界の歴史4) 中央公論社 1997
▶︎小林登志子著『古代メソポタミア全史』(中公新書) 中央公論新社 2020
▶デイヴィッド・アンソニー著,東郷えりか訳『馬・車輪・言語(上)』筑摩書房 2018
▶林俊雄著『スキタイと匈奴 遊牧の文明』(興亡の世界史) 講談社 2007
▶︎前田徹他著『歴史学の現在 古代オリエント』山川出版社 2000
▶森安孝夫『シルクロード世界史』(講談社選書メチエ) 講談社 2020

★次回予定「古代オリエント15 アケメネス朝⑴ 帝国の創生



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