見出し画像

気鋭のアーティスト 山﨑晴太郎氏の作品から考える「教育から“こぼれ落ちて”いくもの」

この度、世界的に活躍するアーティストの山﨑晴太郎氏(セイタロウデザイン代表)に、リープの想いをコンセプトにアート作品を手掛けていただきました。

企業教育のコンサルティングを行うリープ株式会社の新オフィス「 気鋭のアーティスト 山崎晴太郎氏の作品をオフィス空間に設置 」 | リープ株式会社のプレスリリース (prtimes.jp)

山﨑さんは私の大学時代のゼミの先輩にあたる方で、偉大な先輩の作品がリープのオフィスに飾られていることが、なんだか不思議に感じられつつも本当に嬉しいです。
そのようなつながりもあって大変僭越ながらnote執筆の機会をいただきましたので、今回制作いただいた3作品の中から「こぼれ落ちたものの標本/ Specimens of the spilled over (2024)」について、私なりの想いを綴らせていただければと思います。

Medium: Photo Painting Photographic Paper, Nylon Resin, Pigment H700mm W1300mm D70mm

最初にこの作品を目にしたとき、印象的だったのは色でした。
まず、背景のグラデーションが、なんとなく当社のパンフレットの色味に似ているなと思いました。
実際にはリープの創業地の空を山﨑さん自ら撮ってくださった写真が用いられていて、それがたまたま私にリープのパンフレットを思い起こさせたのですが、その偶然性が一層、当社のルーツを辿って行き着いた色を思わせて感慨深い気持ちを抱きました。

この穏やかで美しい、けれど「何かが潜んでいそう」「何かが生まれてきそう」な、そんな深い空の色合いになじまずに、蛍光グリーンが島のように際立って浮かんでいることに「なぜ、この色?」と興味を持ちました。
私はつい調和を選んでしまうから余計にそう思ったのかもしれません。

後に山﨑さんのメッセージを読み非常に腑に落ちたというか、この作品の“境界の物もの”がこの色である意味が私にはとても好ましいものに思えて、それから、会社に来てエントランスを出入りするたび目に入るこの作品がより一層、とても好きになりました。

リープ(株) エントランス


その山﨑さんのメッセージがこちらです。

「こぼれ落ちたものの標本 (2023-)」

多様性や疎外されたコミュニティへの配慮を欠いた表現は、今は許されない。その重要性は社会に広く十分に理解されている。しかし、見かけの「多様性」や「マイノリティ」への表面的な配慮が、より深い理解や思慮深い関わりを阻害しているケースがあるのではないだろうか。

ぼくには、世界がマイノリティや多様性といった概念の類型化を行なっているように見える時がある。まるで、まだ見ぬ昆虫に名前をつけ、ピンで固定し、標本箱におさめていくかのように。

これまで見過ごされてきた側面を指し示す新たな言葉を捏造し、その言葉に対応する標本を展示することで、言葉や概念の境界線に隠されたものが発する触感や匂い、味、あるいは音さえも、ぼくたちはうっかり見逃しているのかもしれない。

雲のような姿は、言葉では表現しにくい、言葉の境界にある曖昧さを象徴している。蛍光塗料を塗ることは、元の被写体が持つ無限のニュアンスを鮮やかな一色に還元することのメタファーであり、虫ピンで固定することは、境界に隠れたものを標本のように表現する暴力的な行為を象徴している。

曖昧さの中にある、新たな概念を掬い取ること。それは社会にとって薬にも毒にもなり得るものだ。

我々は、そのことを決して忘れてはならない。

Specimens of the spilled over - SEITARO YAMAZAKI (seiyamazaki.com)


リープのサービスは、インストラクショナルデザイン(ID)という学術理論に基づいています。
IDはときにKKD(経験・勘・度胸/惰性)な教育に対する批判も交えながら、理論的に、構造的に教育を正しく可視化しようとします。
効果的でない教育は学び手に対しても教え手に対しても時間と労力を奪います。ですから、IDに基づく適切なシステムとしての学習設計はとても大切です。
でも本当はその過程で、培われてきた指導者の経験的な声や、言葉にならない学習者の声を聞き逃してきていることがあるかもしれません。(申し添えておくと、IDはこうした学び手や教え手の声を無視するようなものではありません。むしろ、学び手の特性や好みをとても大切し、学びにどんな工夫ができるかを、取り入れられるものは何でも使って取り組む姿勢が強いです。ただ、様々な理論を活用したり多様な学習の現場に対応したりしていく中で、ともすると取りこぼしているものや、取りこぼしてしまうリスクが往々にしてあるのではないか、ということです)
理論にとらわれ、効率を追い求め、本当に「そうでなかったか」と問われれば、やはり常に省みないといけないように思います。

8 million traces(2024)Inkjet Print on Japanese Paper H400mm W297mm D30mm

境界に隠れたものを標本のように表現する暴力的な行為を象徴している。

類型化する、名前を付けるということは、その名前の枠に入れるものと入れないものを決めるということです。

名前を付けたり標本として飾られたりすることで、その存在は浮かび上がり、「見えるもの」になります。そして「見えるもの」にならなかった部分は、見えないまま、「見えるもの」と切り離されてしまうのかもしれません。

「標本」という言葉を見たときに、私はある2つのマンガ作品を思い出しました。
以下に、『メリー・ウィッチーズ・ライフ ~ベルルバジルの3人の未亡人~』(メノタ著)[1] と『へんなものみっけ!』(早良朋著)[2]の一節をお借りして、「標本」を考えてみたいと思います。(ネタバレを含みます)


『メリー・ウィッチーズ・ライフ ~ベルルバジルの3人の未亡人~』で、未亡人となったオパールコガネムシのイライザは、街の博物館で標本になってしまった亡き夫と再会します。
大きなショックを受けるイライザに、友人で魔女のゾーイはこう声を掛けます。

…こう考えてみましょう イライザ展示されているなら旦那さんのご遺体は丁重に扱われるわ復活させるためには遺体のありかがわかっていた方がいいと思うの

イライザとゾーイともう一人の友人シィシカはみな未亡人で、魔女として修業をして夫を復活させることを目指していて、そのためには遺体が綺麗かつ安全に保管されているのはある種ポジティブな事象といえるのです。イライザの夫ボードワンの姿は、標本となって晒されている残酷さと、いつか蘇ってイライザの元へ戻る希望や死後も美しい姿で会えることへの一種の愛の形が表れているようにも思えて、なんとも不思議な気持ちを抱かせます。

もう一つ、『へんなものみっけ!』では、博物館所属の鳥類研究者のキヨス先生が、自然死や事故死した動物を一頭一匹でも多く標本にしようと奮闘します。博物館を、「100年後の未来にも届くギフト箱」と称して、たくさんの「(そこに)いたんだ」を残すことに全力を注いでいます。今はありふれた存在でも、いつかの未来には“幻の動物”になってしまうかもしれない。命の足跡を、標本にすることで未来に届けようとするのです。

「これまで見過ごされてきた側面を指し示す新たな言葉を捏造し、その言葉に対応する標本を展示する」ことへの警鐘として「境界に隠れたものを標本のように表現する暴力的な行為を象徴」したこの作品を考えるときに、私は次のように考えました。

標本のように晒されるということは、暴力的な行為でもあり、でも、何かを残そうとする愛情や、知ってもらうことできっとよい未来につなげようという愛情でもあるように思います。
何かを見えるようにすることが悪いのではなく、見かけの「多様性」や「マイノリティ」への表面的な配慮によって、より深い理解や思慮深い関わりが阻害されることがあってはならない。このことを忘れてはいけないのだと思います。

私たちは、人の対話を分析しています。
日常では何気なく流れていってしまう対話を緻密に評価し、分析し、レポートに起こすことは、もしかしたら標本にすることと似ているのかもしれません。
人間の生身のふるまいはだんだんとデータになり、掲示されるものになり、その中で実際には話者の気持ち、分析の過程に協力してくださった方々の様々な気持ちや意図を取りこぼしているのかもしれません。

けれど一方で、こぼれ落ちたものに気づくには、結局のところ何かを類型化し、可視化するしかないのかもしれないとも思います。何かが見えるようになるから、見えないものがあることに気づけることもあるように思うのです。

Medium: Photo Painting Photographic Paper, Nylon Resin, Pigment H700mm W1300mm D70mm

私たちは常に可視化を目指しています。今まで見えていなかったことをデータで、構造で、デザインで、その他あらゆる方法で見えるようにすることが、お客様のビジネス発展への貢献につながると信じているからです。
しかしながらその過程には必ず、こぼれ落ちていくものがあるでしょう。
今まで見えていなかったものを「見えるもの」にしようという愛情と、でもその中で浮き彫りになってしまうこと、こぼれ落ちてしまうもの、そうした様々な曖昧なものたちへのなんとも形容しがたい悲哀や苦い気持ちを、この作品の雲のような非定型の形を見ると思います。

見えているもの、見るべきもの、見失っていくもの、そのどれもがいつもそこに存在することを意識して選択し続けなければいけないと感じました。

曖昧さの中にある、新たな概念を掬い取ること。それは社会にとって薬にも毒にもなり得るものだ。
我々は、そのことを決して忘れてはならない。

山﨑晴太郎さま、セイタロウデザインのみなさま、この度は本当に素敵な作品とそこに関わる全ての取り組みに心よりお礼を申し上げます。

[1]メノタ(2022)『メリー・ウィッチーズ・ライフ ~ベルルバジルの3人の未亡人~ 1』 主婦と生活社.[2]早良朋(2017)『へんなものみっけ! 1』 小学館.


Written by キャシー
リープ株式会社 インストラクショナルデザイナー

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?