「こんなもん」を認めるために

「お前の人生、こんなもんだ」
高校3年のとき、漢字検定に落ちた。2級だった。1点、足りなかった。
高校2年のときには、3点足りなかった。
1年で2点しか埋まらなかった。
その事実に打ちひしがれていた僕に、当時の担任は、上に記した言葉をかけた。
それからの人生を振り返ると、この言葉がずっと僕にまとわりついている気がする。まるで呪いのように。
言葉で呪う、なんて大人気漫画の登場人物のようだけれど、言葉の力は意外とすごい。それを意識していないとしても。
それからの僕の人生は、迷い、悩み、苦しんだ。それは今も続いているのだけれど、至るところで出会う言葉たちは、僕を救ったり、苦しめたりする。
文字通り「こんなもん」の人生がずっと続いている。うれしい言葉に胸を弾ませても、「こんなもん」と言われたことが、ずっとつらい。
僕は生来、うれしいことよりもつらいことのほうが記憶に残る人間だ。昔の失敗のほうがいつまでも忘れられず、ひとりでもやもやしていたりする。失恋の記憶など、未だに生傷のままである。新鮮極まりない。
何か失敗をする、挫折をする。顔も忘れ、声も忘れたはずの担任の「こんなもん」がまた耳に響く。耳を引きちぎってやろうかと思う。それでも記憶は消えないことを知っている。
自分を愛する、とか、自己肯定感、とか。胃の辺りがざわざわしてしまう。
自己愛とか肯定感が嫌なわけじゃない。それらを持てる人はすごいと思う。僕はずっと、それらの持ち方がわからない。自分の「いいところ」が、何もない。
今もなお、僕は担任に「こんなもん」と言われた傷をどうにも出来ずにいる。愛すべき自分は「こんなもん」なのだ。
それはそれは色々なことをやってみた。これなら上手く出来るだろうか。これなら続けられるだろうか。これなら、あれなら。
そうして、自分が本当に「こんなもん」なのではないかと、諦めてしまいそうになる。1点足らずの人生、不合格の人生、1年で得られるのが2点だけの人生。人でいることが、やっとの人生。
途方に暮れる。言葉の力の恐ろしさに。自分の無力さに。
でもはたと気付く。「こんなもん」と言った担任は、他に優しい言葉もくれた。今も人生の指標にしている「良いときも悪いときもそばにいてくれる人間を選べ」という言葉もくれた。
「こんなもん」に縛られていたのは僕で、担任が縛ろうとしたわけではないのだ。
彼にとっては叱咤激励だったのかもしれない。そう言えば「なにくそ」と僕が頑張ると思ったのかもしれない。諦めるような奴じゃないよな、って言いたかったのかもしれない。ときどき変な言葉を選ぶ人間だった。
呪われていたわけじゃない。「呪われている」ことを、あの言葉を言い訳にしようとしただけなのかもしれない。恐ろしい言葉の呪いは、きっと受け取り手が生むのではないか。
「あなたのこういうところが嫌い」と言われて振られたとして、他の誰かにはそこが長所に見えるかもしれない。愛してくれる理由になるかもしれない。その言葉に縛られていたら、愛してくれる人に気付けない。
言葉の呪いを生んだのは、この場合は僕だった。
本当は、もっと言葉の恐ろしさとか、その後の残念な展開になる人生の愚痴とか、そういうものを書こうと思っていた。でも、あの頃を思い出し始めたら、なんか違うって気付いた。
「こんなもん」の自分でいいんだ。そう言い切れるわけじゃない。やっぱり合格する人生がいいし、愛される人生がいい。
大きく深呼吸をする。とりあえず生きている。「こんなもん」でごめんなさい。父と母に言いたくなる。
今言葉を綴ることを選んだのは、「こんなもん」に縛られ続ける自分を、そろそろ救ってあげたいから。そして、もしかしたらこれを読んでくれる、同じような気持ちのあなたに届いて欲しいから。
呪う言葉より、笑う言葉を。
嫌う言葉より、願う言葉を。
そう出来たなら、「こんなもん」の僕を認められる、かもしれない。


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