時事エッセイ_008

【時事エッセイ】キングコング西野の件について考える【#008】

(この文章は約8分で読むことができます。)

要点としては、次の1点に尽きる。
「クリエイター・表現者の良質な作品を、インターネット上で、無料にて公開することは善か悪か」

もはや、漫才師というよりも、お笑い芸人というよりも、絵本作家、あるいは、これからの時代の新しいビジネスモデルの提唱者としての顔のほうが有名になってきた、お笑いコンビ・キングコングのツッコミ、西野亮廣がベストセラーとなった自分の著作物「えんとつ町のプペル」の全編を、インターネット上で無料公開した。

この行為に対して、「クリエイターが一生懸命に表現した著作物の価値が下がる行為である。」と批判が出た。これに対して、西野さんが反論し、ツイッター上で大きく議論を呼んでいる。

私なりにざっくりと両者の言い分をまとめてみた。

西野さんを批判する側の主張は、

「西野さんは、お笑いタレントとして、成功を収めており、絵本で稼がなくても食べていける。もはや、一流の絵本作家となった西野さんが、無料で作品を公開することで、無料で作品を見られることが通例化してしまい、絵や文章や音楽一本で生活している人の作品が、有料で売れなくなってしまう。そのため、クリエイターは生活に困窮し、その道を諦めざるを得なくなる。よって、西野さんが今回行った行為は、クリエイターの数、作品の数は減少し、文化の衰退につながる重大な行為である。」
といったところだろう。

「えんとつ町のプペル」という作品は、書店で2000円で売られているものだ。それが、ネット上で無料で見られるということになれば、著作者や出版社に一銭もお金が入ってこない。この「作品が無料で見られること」が当たり前になれば、作家などといった職業は存在しなくなる。これが現実となれば、自分が感じたことを何らかの形で表現して、それがお金につながればいいなぁと考えている夢を持つ、私のような人はいなくなってしまうだろう。

一方で、西野さんの意見は次のようなものだ。

「ネット上にて無料で公開することは、その作品をタダでお客さんに提供しているわけではない。お客さんに対して、この作品にお金を払ってもらうかどうかの判断を託した。さらに、ネット上で公開された作品と、書店で購入できる紙媒体の本とは、明らかな差別化ができるものである。基本的な機能は無料で公開し、さらに上位の機能を有料で提供するフリーミアムと呼ばれる商法を利用した。物語の中身を無料で知ってもらう。手元に残る紙媒体の商品は、読み書かせに利用したり、画面を通さずに絵を見ることができるという点で、ネット上に公開されているものよりも高度な商品になる。ネット上の作品と紙媒体の作品は、このような差別化され、絵本という作品はフリーミアム商法を応用可能であると考えた。」

他にも、西野さんは、アニメ作品はテレビで、音楽作品のPVはyoutubeで、無料で公開されている例を挙げ、すでに他の芸術分野の作品でも行われていることであると述べている。アニメも音楽も、無料で鑑賞する方法があるからと言って、有料商品が全く売れていないということはない。

どちらの言い分も、理に適っていることは確かである。文化・芸術作品の安売りは、クリエイターの生きていく上での生活を苦しくさせる。そうなれば、文化・芸術の担い手がいなくなり、その分野は衰退させてしまう危険性をはらんでいるだろう。元々、そういったものがお金になりづらいことは多くの人が承知の上であろう。せっかく、お金になり得る可能性がある作品まで買いたたかれてしまっては、クリエイターもがっかりであろう。

その一方で、西野さんの言い分もわかる。ただでさえ、グローバル化や価値観の多様化といって、多くの人が多くのものにふれる機会は、一昔前よりも格段に増えている。自分の好みのモノを見つけたいのであれば、そのモノの情報が必要となる。自分が好きなモノであるにも関わらず、情報の不足によって、そのモノが購入されなかった場合、購入する側もされる側も、その両方が損をすることになる。今回の西野さんのとった手段は、こういった両者の損を回避する方法として非常に有効な方法であろう。自分が好きな作品かどうかを判断し、好きだと感じた人は、実際に紙媒体の本を購入することができる。

私もそうだが、やはり本は紙でなければという意識の人は、まだまだ多くいるだろう。絵本となれば、紙媒体の意味合いはもっと強まるだろう。絵の息遣いというものは、画面を通したものでは感じづらい。

西野さんがとった手法は、間違いなのか。私の考えとしては、間違いではないと思っている。少し場合を分けて、考えてみたいと思う。

まず、私のように、いつか自分の夢をかなえようと歩み始めた者が無料で自分の作品を無料公開した場合。

今回の西野さん同様、私もまだ作品というにはおこがましいが、エッセイという文章を書いて、ネット上で公開している。これは、無料でもいいから、多くの人に見てもらいたいからという、お金儲けとは縁遠いところから湧いている感情である。まだまだ駆け出しであるが、私以外にも、お金はいらないから自分の作品をとにかく多くの目で見てもらいたいというクリエイターはたくさんいるだろう。その中には、お金をとれるほど優良な作品も数多くあるだろう。だからといって、そういったクリエイターたちに無料で作品を公開するな、というのはすこしかわいそうな話である。彼らはまさに文化活動の底辺を支えている活動に違いない。

次に、圧倒的に名が売れたクリエイターが行った場合。

今回の西野さんがそれにあたるだろうが、自分の作品の広告手段として、売り上げが上がったのだから、間違った手段ではなかったのであろう。他のクリエイターへの影響についても考える。そもそも、こういった芸術の分野は、見る人が見ればはっきりと違うとわかるものの、興味がない人から見れば大体の作品が同じように見えてしまうものである。音楽の中にも、似たような歌手はたくさんいるが、ある特定の歌手の熱狂的ファンという人は、どんな歌手にもいるだろう。つまり、なにが言いたいかというと、他人の作品が無料で公開されたからといって、自分の作品を買ってくれる人への影響はそれほどないだろうというのが私の考えだ。

価値観が多様化したこの情報化社会の時代。自分が好きになれるものは、ちょっと探せばいくらでも見つかるように、クリエイターが表現しているものも多種多様になった。その中には、確かに似ているものはたくさんある。しかし、それらは似ているだけで、一つとして同じものはない。その似ているものから、作品を購入してくれる人は、微々たる差を感じてくれて、その微々たる差に何かを感じて購入してくれるのだ。その何かを感じることがない人は、決してタダでもその作品を手元に置こうと思わない。その何かを感じてくれた人は、多少のお金を払ってもその作品を手元に置きたいと思ってくれる。いろいろな作品が世の中にあふれるほどあるこの時代、他の人が無料で作品を公開したところで、その作品がいいと思う人と、有料でしか作品を公開していない人の作品をいいと思う人とは、間違いなく別の人物である。顧客をつぶし合うことにはならないだろう。つぶし合うことになってしまっているとしたら、その二つの作品が似ており、かつ、残念ながら有料で公開している人の作品が若干ながらも劣っていることを意味するだろう。

(芸術の分野に優劣がないことは百も承知しているが、主張をわかりやすくするために、このような表現を使っている。このような表現しかできない自分に、はらわたが煮えくり返っている。)

最後に有名とも無名とも取れない中間層のクリエイターの場合。

これはもう次の一文に尽きる。無料で公開して売り上げが下がるのであれば、有料で買う価値が出るまで、より一層の努力を重ねることが一番である。

0から1になった時点で満足せずに、それを2、3へと増やす努力をするべきである。ある程度クリエイターとして、収入が入り始めた場合、それはもうアマチュアの皮が一枚めくれたことになる。その段階で、今までと同じ売り方を続けることは、あまりにも無策である。せっかく魚が食いついている釣り竿を目の前に、ただその竿を眺めている行為である。あわせるなり、リールを巻くなり、次の行動をとるべきである。

その行動が、無料で作品を公開するという策を講じた結果、それを失敗だと思うのであれば、次の策へと移った方がよっぽどいい。自分の腕を磨く方がよっぽどいい。無料で公開することが文化にとって良し悪しかを吟味する時間がもったいない。私からしたら、自分の作品に値がつくこと自体が喜ばしいことなのに、それ以上のことを望むであれば、他の人のやり方をとやかく言うことはなく、せっかく値が付いた自分の作品を磨き上げていくことを、ただひたすらに行うだろう。

以上の3パターンを考えて、「クリエイターが無料で作品を公開することについて善か悪か」は、底辺でも最上位でも大きな問題はなく、中間層はそのことについて考えることはお門違いであると考える。

最後に、私が大好きな演劇で同様のことを行った場合にどうなるか考えてみたい。

劇団によって、公演を無料でyoutubeに上げている劇団もあるだろう。私も劇団を作った時には、その取り組みを行いたいと考えている。

演劇の一番の肝は、目の前で生の役者が演じている熱量、劇場内の空気の一体感である。それを最大限にするための、脚本、演出である。無料で、画面越しに、演劇の全てを見ても、その熱量、一体感は決して感じられない。
演劇は、フリーミアム商法を応用した売り方ができるのではないだろうか。youtube上にて、無料で作品を公開し、その場に行ってみたいと思わせる広告活動を行う。そう思ってくれたお客さんは、喜んで劇場に足を運んでくれるだろう。

演劇は生でなければ、という考えを持っている演劇人は多いだろうが、その考えが間違っていないと私も思う。その考えを持っているために、作品の映像メディア化を拒んでしまうことは、演劇に触れる人数をいたずらに減少させる行為ではないだろうか。ただでさえ、演劇というものの敷居は、一般人には高い。演劇人が何と言おうと、その敷居は高いのである。その敷居を下げる努力はすすんで行わなければならない。その方策として、演劇の映像メディア化は極めて有効な方法であると考えている。それを無料とするかは、その劇団の運営方針の一存であるとは思うが、フリーミアムという商法がある程度確立している現在、試す価値がある方策ではないだろうか。

話が少々脱線したが、私は西野さんのやり方に特に問題がないと考えている。理由は、次の通りだ。

・ほしいものは有料でも買われる。

・無料でしか受け取ってくれないものしか作れないのであれば、有料で受け取ってもらえるものを作る努力すべき。

・ネット上で画面を通して見られる作品と、生で見られる作品には明らかに商品としての差別化は図れる。それは、複数の芸術分野に共通して見られる。

西野さんの発言内容に、少々乱暴な言葉が使われているとは思うが、自分の作品をより多くの人に見てもらいたいという気持ちから取った行動であれば、理解できる。もしくは、自分の作品の利益を大きくしたいという気持ちから取った方策であれば、結果だけみれば、今回は成功している。無料で公開することのリスクは大きいが、どんな方策にも大なり小なりのリスクが存在する。チームで作成した作品を、そのチームのリーダーが独断でリスクの高い方策を取ったことに関して、チームの和を考えた場合に大きな問題があるとは思うが、結果として成功したため、不幸中の幸いといったところではないだろうか。

私も早く、一挙手一投足が取り上げられるほど、有名なクリエイターになってみたい。そのために、今日も無料で作品を公開するのである。

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