#32 『那覇港出港、その前に』(那覇)
『畠山さん』
畠山さんと最初に会った日を日記には詳しく書いてなかったけれど、ものすごくニコニコして椅子に座って来たのは覚えてます。
フリーカメラマンの畠山さんは、サミットを取材・撮影に来たのではなく「サミットを取材する報道陣を追いかけに来てん」と言ってました。
撮影期間に沖縄の美ら海に魅せられて「もっかい戻ってくるわ」と言って大阪に帰りました。
戻ってきて再会したのが8月16日でした。僕が恩納村の居酒屋『海ぶどう』から戻ってきた頃だったので、国際通りのいつもの場所で再会できました。
畠山さんは、9月の中旬まで滞在するつもりだったようで、沖縄でバイトを探してました。とはいえ、失業率が日本で一番高い沖縄で、なかなかバイトは見つからず、滞在費を節約するために、今風に言うとドミトリーというか、シェアルームというか、シェアスペースって事になるんでしょうか、パレットくもじの空いてるスペースを使ってました。
もちろん、このシェアスペースを快適に過ごすための基本的なルールのオリエンテーションをしてあげました。
『ルールとバイト探し』
8月16日(水)
畠山さんもパレットくもじで過ごすらしいので、ひと通り説明してあげた。
「寝る場所は、コチラでお願いします。風が強かったり雨が降ってきたらアッチに移動してもいいんですけど、コッチの方が風の通りがいいので寝やすいです。6時にガードマンが来るので、そのちょっと前に起きて、使ってるダンボールを隠さないと怒られます。たぶん年下の大人に怒られます。」
8月17日(木)
起きたてホヤホヤに、朝のトイレ事情と8時までの過ごし方のオリエンテーションだ。
「この時間だと、アッチのトイレは鍵がかかってて使えないので、顔洗ったりするのはコッチの水道です。7時には、しっかり暑いので、公園で過ごすのが一番リーズナブルです。」
オリエンテーションの目玉は、8時からの過ごし方だ。
「ここが県庁の待合ロビー、通称、オアシスです。8時に県庁が開くので、それまで我慢すれば天国です。あ、あの人が中島さんです。いかついですけどガードマンです。攻撃する人じゃなくて守る人です。」
お昼に銭湯とコインランドリーの場所を案内してから、安くて美味しいメシを食わせてもらえる『花笠食堂』を案内、年に1回公設市場で盛大な振る舞いがあるけど、今年は終わったという残念なお知らせも伝えて、最後に非常事態の時にオススメの献血ルームも案内しておいた。
説明と案内を終えて落ち着いたところで、畠山さんのバイト探しだ。何件か飛び込みでお願いしたらしいが、さすがに見つからなかったようだ。断られる大きな理由は『募集要項:年齢30歳迄』だった。
37歳独身の畠山さんには、かなり高いハードルだ。
「畠山さん、ごまかしましょ」
「まぁ、そうやねんけど、7つもごまかせる?」
「え?7つ?いやいや、10ぐらいごまかさんと」
「それは、いくらなんでも無理なんちゃう?」
「30歳迄のとこに、37歳のオッサンが30歳って履歴書持って登場したらバレバレですやん」
「なるほど、そしたら29?」
「28歳でいきましょ」
「いやいや、え、28歳?」
「面接の人に『ホントに?』みたいに言われたら、今年29歳になるんで、満だと29で、数えだと30なんですけどって言いましょ。そっちの方が、それっぽいでしょ」
「それっぽいかなぁ?」
「それっぽいっす」
「けど、免許証見られたら、10歳で免許取ってることになるけど・・・」
「むしろ『10歳で免許取るってすげぇ!』ってなるんちゃいます?」
「なるかな・・・」
ならない。絶対ならない。結局、履歴書には28歳と書いて、運転免許なしにして面接に出かけていった。
面接から帰ってきた畠山さんが「22日に合否の連絡しますって」と。連絡来るのが5日後?めっちゃ慎重に判断するみたいだ。面接に行ったとこの仕事内容を聞いたら
「不発弾の処理やねん」
「そんなんバイトでええんすか?」
「募集してたから」
「危険物取扱いみたいな資格なくてええんすか?」
「うん、ええみたい」
沖縄、懐深いな。けど、そのバイトの募集が30歳までの理由なんやろ?
逆に年齢が高い方が丁寧な仕事しそうやけどなぁ。面接で落とされたら、そうとうヤバイやつに見られたんやろな。
あの後、畠山さんがバイトをしたのかどうなのか詳しく日記には書いてなかったのですが、面接の合否が出る前に、畠山さんが引き受けてくれた仕事がありました。
畠山さんは、サミットを取材する報道陣を追いかけに来た変わり者のカメラマンなので、沖縄に戻ってきた理由は、美ら海に魅力を感じたのと、もうひとつ『話し相手JAPAN TOUR』に興味を持ってくれたようだ。
ツアーを終えて10月にやったひとりLIVEも見に来てくれました。LIVEの告知のための写真を撮ってくれたのも畠山さんでした。
もうひとつ、LIVEの最後のスライドショーで流したいと思ってた沖縄の青空の下、全裸で歩く後ろ姿の写真も撮ってもらいました。
今となっては、なんでそんな写真をLIVEで流したいと思ってんやろ?と思い返すのですが思い出せません。ただ、かなり前からLIVEの最後は「それでいこう」と思ってた事は覚えてるのですが
『撮影日』
8月19日(土)快晴
ぬけるような青空の、海に続く道、照りつける太陽の下、尻の写真を撮ってもらってる。
2日前に、東京に戻ってからやる、ひとりLIVEの話をしたら、畠山さんが撮りたいと言ってくれた。LIVEでやる内容は、全く決まってないのに、最後に流す映像のイメージだけは、結構前から出来てた。
東京をスタートして訪れた街と出会った人の写真(後半あんまり撮れてないが)の最後は、沖縄の太陽に照らされながら海に続く道を全裸で歩いてるオレの後ろ姿の写真と決めてる。その写真を畠山さんが撮ってくれてる。
イメージ通りの場所に車で連れて来てくれたのは、てっちゃんがお世話になってる仲本さんちの娘のまゆみさんと友だちのいずみさんだ。
2人は「そういう道だったら・・・」と言って4ヶ所回ってくれた。もちろん、全裸で歩く事も伝えてた。なので『そういう道』というのには、全裸で歩ける道という意味合いも含まれてる。
そんなオカシな人たちのおかげで無事に撮影を終えた。
「俺が撮らなかったら、どうするつもりやったん?」
「歩いて『ここや!』と思った場所で、人が来るのを待って、その人に『ちょっと脱ぎますんでシャッター押してもらえます?』ってお願いしよかなと思ってました」
「捕まるで」
「でも後ろ姿ですよ」
「脱いだ時点でアウトやから」
たしかに、よくぞ4ヶ所無事に脱げた。
21年前、ナニを思って全裸になって、知り合って半月にもならない人に尻を撮ってもらってたのか、あの時の自分に聞きたい。
結局、LIVEの最後は尻の写真で終わったのだけど、尻にこだわってた理由が何やったのか、正直よく覚えていない。
自分を解放したかった・・・なんていうアリキタリな理由は、いくらでも後付けで足せると思うのだけど、沖縄にたどり着くまでにアレコレ十分解放してるし、解放=全裸って、なんか若い、若すぎる。
お前、33歳やってんで。って、21年前の自分に説教してやりたい。ただ単に『明確な理由があってそうした』と思いたいだけです。
若気の至り、いや、若気のお尻。まだ、そっちの方がオモシロイと思う今日このごろです。
『沖縄で2度目の献血』
8月22日(火)
ベテランの看護師さんが、オレの腕に針を刺そうとして手を止めて新人看護師を呼んだ
「あら、わかりやすい血管してるわよ。ちょっと見てみなさい。ほら」
「あぁ、ホントですね」
「・・・」
「どぉ?これならいいんじゃない?」
「いえ、まだちょっと自信ないです」
「・・・」
「そんなこと言ってたら、いつまでたっても出来ないよ」
「はい、じゃあ、やります」
「・・・」
その会話、オレの前ではアカンやろ。裏でやりとりして「じゃあ、やります」って出てきて、笑顔で「それじゃぁ針刺しますね、チクッとしますよ」って事なら全然ええねんけど、目の前で、オレの分かりやすく浮き出た血管見ながらも不安そうな顔で「じゃあ、やります」って・・・ナニ?
この献血ルームに来るのは2回目なので、確かにお世話になってるといえばお世話になってる。オレが出来る恩返しは、400mlの成分献血ぐらいしかないと思ってたけど、なるほど、新人さんが初めて刺す針を受け止めてあげる事も出来るのか。よし、思う存分ぶっ刺せばいいよ!!
とは、ならんで。
結果、思い切りぶっ刺しにきた。
成分献血を終えて、いつもより多めに『ご自由にどうぞ』と書かれたお菓子ボックスに入ってる『ちんすこう』を全4種類食べて、ポケットにも入れて献血ルームを後にした。
沖縄に来て、もう1ヶ月になる。7月25日に、この献血ルームに来た時の体脂肪率が10.6%だった。今日測ったら8.9%になってた。
そろそろ沖縄を発とう。
沖縄を出る10日ほど前に出会った占い師、沖縄では『ユタ』というのだけれど、そのユタらしき人の住居&占い館(喫茶店とマッサージと霊視&占いが一緒になってる空間)は、まだ、あの場所にあるのだろうか?
お金を出して占ってもらったのではないのだが、そのユタには散々言われました。
「一家離散だな。精神がやられる。一度離婚する。離婚の原因は女関係だな。」
だな。じゃないわ!
離婚どころか、結婚すらしてないがな!!最後に言われたのが
「口は災いの元だよ。」
だよ。じゃないわ!
この仕事でけへんやん。まだ、あの占いの館があったら、行って今の姿を見せたい。
ただ、そのユタのおかげで沖縄を出られたというのもあるので、一応、占い館と先生の名前は、伏せておきます。日記には、ユタの年齢が55歳と書いていた。
そんな僕は、今年55歳になる。
『記憶をたどる電気工事』
8月26日(土)
13年ぶりに電気工事をしてる。実家が電気工事屋で、19,20歳の頃は、実家を手伝ったり手伝わなかったりしてた。
この工事の依頼主は、1週間ほど前に『話し相手』のテーブルにやってきたユタだった。「あなたが、これまでやってきた事には敬意を表する」と、とても丁寧な始まりだったのだが・・・
「アンタ、もうチャンスはないぞ。まず『占えません』というのは辞めなさい。この『話し相手』というのも『話し手』に変えなさい。あなたは、無駄な事を言いいすぎる。音楽をやりなさい。あなたと結婚する女性は不幸になる。あなたは一人の女性では満足できない。ものすごい金運を持ってるが、今はすごい貧乏神がついとる。なんとかせんとイカンな」そして最後に
「明日、私のとこに来なさい。」
と言われた。本来なら「ふざけんな、ナニが占いじゃ、ボケッ!」となってシカトするか、救いを求めて行くかだと思うが、そのどちらでもなく、ちょっと面白かったので行ってみた。
それから毎日「明日、また来なさい」と言われ、そのたびに「あんたに付いとる貧乏神をなんとかせんといかんからなぁ」と言って、いろいろ電話してバイトを探してくれた。
結局見つからなかった。何かの話で、実家が電気工事屋だと言うと「うちの電気工事やるか?」となった。コンセントを4つ増やして欲しいというリクエストだった。
13年前の記憶をたどりながら、ブレーカーを1つ増やして、それをエアコン専用のブレーカーにして・・・1回停電した。
停電は1回で済んだ。
最初に会った時には「あんたは酒は飲めない。今は男気だけで飲んでる。酒を辞めないと、いたるところを壊すぞ」とも言われた。
で、工事が終わり、バイト代もいただいて、メシを食っていけと言われたので、ご馳走になってるのだが、ユタが笑顔で泡盛を注いでくれてる。
ユタ・・・奥が深い。
『大阪行きのフェリーチケット』
8月27日(日)
ユタからもらったバイト代と、その前に恩納村の『海ぶどう』でもらったお金、そしてジェームズさんのイライラ棒のテキ屋でのバイト代で、沖縄から出るためのフェリーのチケットは、キリが良いので8月31日出港のチケットを買った。
余ったお金で、まぁ、別に余ったワケではないのだが、明日福岡に向かうと言ってたてっちゃんと、まだしばらく沖縄に残る畠山さんを連れて『入店後45分間、ビール100円』という店で、浴びるほど飲んだ。
もちろん2人の分は、オレが男気を見せて払った。
28日からの3日間は、沖縄で沖縄を全く満喫してなかったので、離島に行ってみようと思って、泊港にある『とまりん』で、離島行きの船の出港を待っていました。
結局、台風の影響で風が強くて離島行きの船は全便欠航でした。ただ、ここ『とまりん』は、床がフローリングだったのです。
どちらも同じように屋外でしか寝られない(そもそも寝られる事自体がすごい優しいなと思う)のだけど、パレットくもじの床はコンクリートで、とまりんは、フローリングで木の温かみが伝わってきます。
そんな、すげぇ、贅沢な空間だったのですが、沖縄を出る3日前に知ったのが、実に悲しかった。
8月31日(木)快晴
17時07分。なんか中途半端な時間に出港しました。予定は16時30分でした。
次回こそ、いよいよ最終回。
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