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「自分に優しく生きよう」と決めた日

“Don’t criticize yourself too much” ―いまから15年ほど前、アメリカで参加したキリスト教のリトリート(修養会)で掛けられた一言だ。直訳すると、「自己批判的になりすぎないで」といったところか。

私自身はキリスト教徒(クリスチャン)ではないが、通っていた学校がルター派の市立大学であり、そこで知り合った友人たちも大半がクリスチャンであった。そんな環境で暮らしていく中で宗教が密接に生活や文化、政治経済に関わっている彼ら/彼女らの生き方に興味がわき、時々こうしたキリスト教の行事に参加していたのだ。

その中でも特に印象深かったのが、このリトリートである。「本来の自分に戻るための時間」ともいわれている同儀式は、現在日本でも「仕事や日常生活から一時的に離れ、疲れた心や身体を癒す過ごし方」、「ストレス社会に生きる現代人の新たなリフレッシュ方法」として注目され始めている。

私が参加したリトリートは週末の2日間、大学のキャンパスを離れ、宿泊施設で集まった仲間たちと寝食を共にするというものであった。日常から離れることを目的としているため、時計のない生活。「何だか時間がゆったりと流れている気がする」。そんな感覚を初めて味わった。

自分に対してもっと優しく生きる

夜になると、一人ひとりが神父さまと向き合い自分について語る「コンフェッション(告解)」(司祭を代理人として神に罪を告白し、そのゆるしを請う儀式)の時間が始まった。私自身は何を話したのか覚えていないが、すべてを話し終えた私に神父さまが掛けた言葉が、“Don’t criticize yourself too much”(自己批判的になりすぎないで)であった。

高校時代から留学を目指して必死に勉強し、ようやく手に入れたアメリカでの生活。意気揚々と踏み出した一歩だったが、現実は甘くなかった。日本では優等生で通っていたが、授業はディスカッション形式が当たり前のこの国で自分の意見さえまともに言えない私は一気に劣等生に転落。毎日、深夜0時まで構内の図書館で課題をこなし、週末も遊びにいかずとにかく山のようなリーディングとレポートに追われていた。それでも授業にはついていけず、単位を落とすまいと教授に泣きついたことさえある。

そうこうしているうちに、どんどん自信が失われていき、いつしか「誰にも会いたくない」と下を向いて歩くようになっていた。

そんな私に、神父さまは「親とも友達とも離れてたった一人で見知らぬ土地にきて学んでいる、まずはその勇気を褒めてあげなさい。そんなに自分を責めてばかりいないで、自分自身に対してもっと優しくしなさい」と寄り添ってくれたのだ。

人を救う「言葉の力」

いま思うと、この言葉が当時、そしてその後の私を何度も救ってくれた。この海外経験を機に、私はがむしゃらに頑張るのをやめた。もちろん、努力はする。目の前の仕事は精一杯こなす。ただ、「ま、いっか!」と肩の力を抜くことを覚えた。「よくやった!」と自分自身を褒めるようになった。するとどうだろう、それまでよりもずっと楽に生きられるようになった。心は穏やかになり、日々を楽しめるようになった。

自分自身を認めてあげることで、「他人の声」ばかりを気にしていた日々から抜け出せた。相手の顔色をうかがわずに、自分の意見を口にできるようになった。以前よりもオープンな性格になったことで、交友関係も広がった気がする。何よりも人と話すのが苦手だった私が、いまこうしてライターとして多くの方々とつながれたのは、あの神父さまの言葉によって一度失いかけた自己肯定感を取り戻すことができたからだ。

改めて「言葉のもつ力」のすごさを感じつつ、私も「言葉で誰かに何かを伝えていける人になりたい」と今日も書き続けている。


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