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SS「憧憬す。」


「いいなぁ」

 少年は透明なガラス越しに見えるそれを、瞬きも忘れて見入っていた。逃げもしないそれを、見逃さないうに見入っている姿に青年はあきれて声をかける。が、少年は「うん」だが「ううん」だが区別のつかない生返事を返しただけだ。
 青年は少しのいたずら心で口を開く。

「そんなにうらやましいなら、こんなガラス、割っちまえばいいのに」

 少年はやっと青年に顔を向けて「それはだめだよ」と声を上げた。

「欲しいものを手に入れるにはなんだって対価が必要なんだ。ズルしたら絶対幸せにならないし、そんなことしてまで欲しくないよ」
「理想が高いんだな。そうやって人間はチャンスを逃すんだぜ。それに、ズルしたら不幸になる、なんて誰が決めたんだよ」

 青年の言い分に、少年は少し黙り込んでから眉を下げた。

「でも、そういうものだって。ここの本とか、店長のおじいさんは言ってたよ」
「そう思わなきゃ真面目で損をする奴がいなくなっちまうからだよ。全員がズルしたら、ズルする意味もないだろ? だからずるい奴はみんなそういうんだ。ズルはするな、ってな。」

 少年は慌てて青年を見上げた。

「店長がずるいって?」
「そうだよ。こんなガラクタ屋一つで生計が建てられているわけないだろ。昔にさっさと稼ぎきって、こうやって好きなことやってんだよ」

 少年には青年の言うことは少し難しく思えたが、なんだか夢を壊された気分になってしまった。ため息が、ガラスを曇らせる。青年は気を晴らせるように少しだけ声のトーンを挙げて言った。

「だからまあ、いいんだよ。ズルしたって。なんで一度きりのチャンスを人のために諦めなきゃならねぇんだ、って話だよ」
「……じゃあ、お兄ちゃんがガラス割ってよ」

 兄、とすねた口調で呼ばれた青年はあっさりと、
「嫌だね。俺は現状に満足してるから」
 言いのけた青年に、弟はますます口をとがらせる。
「ずるい」
「だから、お前のすきにしろって」

 少年はガラスの向こうをもう一度眺めた。
 欲しいものがある。
 手に入れるにはきっと、たくさんの苦労があるのだろう。手に入れた人は楽しそうで、それが当たり前であるように享受している。自分にはないもの。ないものは、ないと兄のように現状で満足するべきなのだろうか? それとも、目の前のガラスを割ってしまう方が良いのだろうか。
 月光が、やけに眩しい。
 少年は、じっと見つめていた目を閉じて、肩を落とした。

「僕には、よくわからないよ」
「そうか」

 青年は月を見上げたまま、なんの含みもない返事をした。

「お兄ちゃんは欲しいものがあったらどうするの?」
「そりゃあ、欲しいものができたら手に入れようとするけど?」

 そうじゃなくて、と少年は背伸びする。

「欲しいけど、すぐには手に入らないかも、とか。本当に手に入るかわからないとか」
「……なんだそりゃ?」

 青年は困ったように眉をひそめながらほつれた袖をいじった。受け答えに悩んだ兄の癖だ。少年はじっと青年を見上げると、ため息が降ってきた。

「そうさなぁ。欲しい、って周りに言うかな」

 少年はきょとんとして繰り返すと、兄は頷いてつづけた。

「欲しいって気持ちが一人分しかないから、手に入るか分からないんだろ。でも誰かに欲しい、って伝えてみれば少なくとも俺が「欲しい」って思っていることを知ってるやつが二人になる」
 青年は両のこぶしを挙げて二人を表現して、ゆるく振った。
「言葉には力があるんだ。もしかしたら俺が欲しいものを知ったやつが、俺の知らないところで、俺の欲しいものを見つけてくれるかもしれないだろ? そうしたら、俺は何もしてなくても欲しいものが手に入るってわけ」

 少年はその台詞を聞いて、ため息をついた。夢がない。言葉に力がある、なんていうが結局は周りに頼って欲しいものを手に入れるというだけの話じゃないか。

「やっぱりズルじゃん」
「そうでもない」

 青年はカタカタと笑う。

「お前のことを本当に大事にしている奴なら喜んで協力してくれるだろうし、『仲間と力を合わせて目的を達成する』なんて素敵なことだろ?」

 あえておとぎ話や少年漫画のような言葉で言い換えた兄は、やはりずるい性格だと少年は思った。思ったが、少年は兄の台詞を反芻して、ふと引っかかることがあった。

「ねえ、お兄ちゃん」「なんだ、弟よ?」

 そういえば、まだ言っていない台詞があったことを。

「僕、外に出てみたいんだ。毎晩目の前で毛づくろいする三毛猫みたいに、自由に外を歩いてみたいし、人間みたいにお店を外から見てみたい」

 兄ははじめて、にやりを笑った。

「そうかそうか。お前は外に出てみたかったのか」

 兄は丸い関節をうまく使ってすっと立ち上がると、少年の横に立ってガラス越しの景色を眺める。赤茶色のレンガ、深緑色の街頭が一つ。眠りこけた三毛猫が、こちらをちらりと片目で見やるがまた目を閉じた。

「外は寒いし、こんなガラスは人形の力じゃ割れやしないよ」

 青年を見上げた少年の顔は不安げだ。
 青年はわざとらしく手をポンと合わせて応えた。

「そうだ、いい場所を知ってる」

 青年がガラスの反対側に向かうと、たれかがった古く赤い幕の裏にほぞい溝があり、簡単に木の板一枚の扉がキィと鳴いた。

 少年が声を上げた。
「こんな場所知らない」
「そうだろうな。いつも外ばかり見てたお前は知らなかったろう」
「なんで教えてくれなかったの?」
「外に行きたい、なんて今まで言わなかったろう?」


 深夜のガラクタ屋。ショーケースの小さな一幕。
 いなくなった人形の行く末を、彼ら以外は知る由もない。

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