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「グローバルな問題の答えはローカルにある。スローフードトラベルもその一歩」。地球を9周した起業家は言いました。【#8】

コロナ禍がやや落ち着きを見せ、海外からの観光客も着実に増え始めました。その中で日本古来の伝統食材や料理、それに関わる人たちにフォーカスした「スローフードトラベル」の取り組みが本格化しています。そのリード役の一人が小野寺愛さんです。ピースボートで地球を9周し、世界各地の社会課題の現場に足を運び、その答えを生きる多くの人たちに会ってきました。そして現在は、児童教育や食にテーマを置いて子どもたちと共に様々な活動を実践中。課題解決の糸口は、“ローカルと子どもと食にある”という小野寺さんにその思いを聞きました。


小野寺愛さん
一般社団法人そっか共同代表
日本スローフード協会三浦半島支部代表

<Profile>
おのでら あい  大学卒業後に外資系金融機関を経て、国際交流NGOピースボートへ。16年の間に世界を9周、各地の社会課題の現場を訪ね、子どもたちと共に旅をする中で「グローバルな問題の解決策はローカルにある」「平和は子どもから始まる」「人は食べずには生きられない」との気づきを得て、2016年「そっか」を共同設立。現在は逗子の自然をフィールドに子どもたちの食と教育に力を注ぐ。3児の母。Edible Schoolyard Japanアンバサダー。


地域に根差す「スローフード」を訪ねる旅


――昨年秋にアリス・ウォータースさんの著書『スローフード宣言~食べることは生きること』を翻訳されました。今年はアリスさんを日本に招き、日本らしいスローフードを訪ね歩く予定とうかがいました。

スローフードとは、イタリアに拠点を持つスローフードインターナショナル(国際本部)が取り組んでいるもので、私たちの食とそれを取り巻くシステムをより良いものにするための世界的な草の根運動のことです。1986年にイタリアのブラという町に始まり、今では160カ国以上に広がっています。

旅の醍醐味は、地域に根差したその土地にしかない味に出会い、その食材の生産者の話を直接聞いたり、ゆかりの場所を訪ねたりと、ローカルな文化を色濃く映した体験にあるのではと思っています。たとえばイタリアなら、パルマ産の生ハム、バローロのワインというように、その土地ならではの食を味わう旅って魅力的じゃないですか?旅行者が訪れるから、土地の産業も盛り上がる。結果として、伝統食材が守られる。そんな流れを生み出せないか、日本でも模索してみたいんです。


スローフード運動発祥の地ブラのあるイタリア・ピエモンテ州の風景
2018年に沖縄で開催された「Slow Food Fest in Ryukyu」にて。
地元食材もふんだんに(©日本スローフード協会)



アリス・ウォータースは、50年も前に米国バークレーでオーガニックレストラン「シェ・パニーズ」を開き、スローフードの潮流をつくった人です。そんな彼女を秋に日本にお招きし、日本の「おいしい」を訪ね歩きながらスローフードについて語ります。食べる人に美味しく、育てる人にやさしく、地球を元気にする食べもの、日本にもたくさんあります。今回のアリスの来日が、そんな食を味わうという新しい旅行スタイルの提案でもあり、今後の日本ならではのスローフードが盛り上がることにつながればと期待しています。

――日本ならではのスローフードとは、具体的にはどのような内容ですか。

スローフード国際本部が1996年から始めた「味の箱舟」というプロジェクトがあります。このままだと消えてしまうかもしれない、地域に根差した郷土料理や食材などを守り、食の多様性をつないでいこうという運動です。現在世界で約5500、日本でも70以上の食材の登録があります。アリスさん来日時には、そんな食材を味わうことを軸に、地元の生産者さんやテロワール(風土の味)との出会いを楽しむ「スローフードトラベル」の可能性を模索してみたいです。

例えば、本枯れの鰹節を作れるのは、日本にはもう5軒しかありません。西伊豆では、独自製法によるカツオ節「伊豆田子節」やカツオの塩漬けなど昔ながらの鰹節作りに一般の人も参加できるワークショップを始めています。長野には、今や貴重な存在となっている純粋な野沢菜について、温泉と地元野菜を利用した新解釈の料理をするシェフがいます。秋田は男鹿で、多種多様な海藻を使った伝統料理を守りつなごうとするグループがあります。

いずれも、つくり手の高齢化などで稀少化が進む食文化を守ろうという動きです。国内外の旅行者がこうした場所を訪れることで、食の多様性を次世代につなぐことができたらと思っています。


300年以上前にこの地で考案された独自の製造方法“手火山式焙乾法”によって、
30以上の工程を経て作られる伊豆田子節。一般向けのワークショップも始めた
(©日本スローフード協会)
野沢菜は18世紀半ば、土地の僧侶が京都・大阪名産の天王寺蕪を持ち帰り
栽培したのが始まりとされる。気候の違いから独特の野菜が誕生した(©野沢温泉観光協会)


――日本人にとっても目新しい料理や食材です。

そうですね。日本の味の再発見でもあります。アリスさん来日時には、京都で、野の摘み草や野菜で仕立てる“草喰(そうじき)料理”を食していただきます。「草喰なかひがし」の店主は、今も毎朝、天気に関わらず裏山に分け入って野草を採り、畑から食材を得て、余すところなく使った懐石料理を出している方です。

島根では、約230年前の武家屋敷を2008年に「暮らす宿」として再生させた世界遺産・石見銀山の「他郷阿部家」での滞在などを体験する予定です。オーナーは、昔ながらの伝統や暮らしと、そのバランスを大事にしている方で、ここではその考え方に触れることができます。

消費するだけの旅、買って済ませる暮らしには多くの人が疲れているのではないでしょうか。単なるグルメツアーではなく、食を介して各地のライフスタイルにも深く触れながら、見過ごせば途絶えかねない食文化の多様性や地域文化の保全に、ツーリズムを通した貢献をしたい。地域に根ざした暮らしをゆっくり味わうことの喜びを、アリスさんと共に打ち出していければと思います。


展望台から望む石見銀山大森町の街並み(©石見観光振興協議会)
他郷阿部家の趣ある玄関の様子
ランプのほのかな明かりで過ごす夕食のひと時(他郷阿部家)


船上での衝撃的な出会い、2人の若者たち


――興味深い挑戦だと思いますが、どうしてスローフードに関わろうと考えたのですか。

私は長く、ピースボートという国際交流NGOにいたこともあって、1つのテーマで国際的につながることの面白さが染みついています。今は地元の逗子で、若い頃からの理想を形にした保育施設や自然クラブの運営に携わっていますが、どうも、こうしたローカルな取り組みをグローバルにつなぐことへの興味を手放すことができないんですね。スローフードの活動は、草の根の地域の動きをグローバルにつなぐ面白さの最前線にある活動です。

今日の午後も、ここからすぐ裏にある森に子どもたちと作っている秘密基地に、地元の小学校の先生方をご案内する予定なんですが… こんな感じで、地域と世界を行ったり来たりで生きているわけです。

――ピースボートに興味を持ったのは。

大学生の時に沢木耕太郎さんの『深夜特急』を読み、強く引き込まれました。当時はバックパック旅行も流行っていて、大学時代は「旅人」に憧れていました。3年生になって友人たちが就職活動をするのを横目に、私は旅への欲求を抑えられず、4年生でアメリカのサンディエゴに留学しました。その後、今の夫となる人と半年間ほど、ヨーロッパからアジアまでバックパックの旅に出ましたが、やがてバイトで稼いだお金も底を尽く。そんな時に、「ピースボートでボランティア通訳として採用されると、地球一周できるらしい」という噂を聞いて、もう最初はただ旅がしたいというだけの気持ちからピースボートにアプローチ。大学5年目の夏に、北回りの地球一周クルーズにボランティア通訳として乗り込みました。当時21歳でした。


横浜港に停泊するピースボート「オーシャンドリーム」(2015年)


――初めて通訳として乗船してみていかがでしたか。

その船上でピースボートの主催プログラムとして、紛争地から国際留学生を集めた洋上会議の企画がありました。旧ユーゴスラビアの諸国・地域とイスラエル、パレスチナから学生たちが参加し、紛争下では話すこともない相手同士が、同じ船で日本の学生に向けて自分たちの地域の話をします。その通訳が自分の最初の仕事だったのです。

旅がしたいだけのお気楽な大学生だった私が最初に通訳したのが、自分と同い年、当時21歳のパレスチナの男子学生でした。生まれながら紛争地で生きてきた友だちは初めてでしたし、彼は自分の親族はイスラエルとの戦闘で亡くしてもいた。まさに戦車に石を投げて少年時代を過ごしたような人でした。

彼は、乗船初日にイスラエルの20歳の女子学生から初対面の挨拶で手を差し出されて握手をしたことを、乗船後も3日間後悔してホームシックになりました。2人はその後の会議でも歴史認識の違いで大喧嘩をしていました。彼の気持ちを理解しようとするところから、私は世界の構造的な問題についてあらためて認識し、同時に同年代の彼のこれまでの苦労を思い知らされました。

ピースボートには、若いスタッフたちが洋上運動会や文化祭など色々な企画をして皆で楽しむ文化があります。そんな船上で1カ月ほど過ごした頃、彼が言いました。「戦争しているのは政府と政府であって、人と人じゃない。人は、出会いさえすればわかり合えるものだね。パレスチナでは、大人たちが楽しむために準備をするなんて結婚式くらいだけど、こんなふうに毎日、楽しむために人が努力することが平和なのだと思った」と。

イスラエルの女子学生とパレスチナの彼は、その後、二人で平和をテーマにした歌を作曲し、ヘブライ語とアラブ語の二言語で歌いました。大きく変わった彼を見て、私自身もまた、価値観を大きく変えられたのです。

――乗船前とは認識が変わったと。

乗船前にも勉強会を重ねて世界情勢について学びますが、実際に旅が始まれば、知識として「知っている」かどうかは大きな問題ではなくなります。だって、友だちの身に起こることはそのまま「自分ごと」になりますから。紛争のことも格差問題も環境破壊も、現場に行くたびに自分ごとが増えていく。それまでは少し距離のあった社会課題を、すべて自分ごととして感じられるようになった。これは、ピースボートのおかげです。

結局、私はもう一周ピースボートに乗り、大学には6年間在籍しました。2回目は南周りで南アフリカを訪れて、アパルトヘイト終焉直後の現地の暮らしを経験しました。白人が住むプール付き豪邸の目の前にトイレもないバラック小屋が立ち並ぶ光景。そういう現実に間近に触れ、その頃の自分の言葉で言えば「この “歪んだ世界” を何とかできないのか」と思ったものでした。

当時はまだ若かったので、「世界を動かしているのはお金だ」と思い込み、ならば一番大きくお金を動かしている場所で働いてみよう、と最初の就職先をアメリカの外資系金融会社にしました。日本の支社で働き始めたまさにその年に、ニューヨークで911同時多発テロという想定外の事件が起き、その結果「アラブはアメリカの敵」となりました。でも私にはパレスチナ人の友だちがいて、アラブの人たちの温かさを知っている。世界が産油国であるアラブを翻弄してきたことも現地で見てきた。だからといってテロは許されることではないのだけれど、西洋の視点からのみ語られるニュースを見て、複雑な気持ちになりました。

さて、翌年、アメリカがイラクへの攻撃をはじめることに反対して、ピースボートの若者たちは在日アメリカ大使館前でハンストを初めました。そこから1ブロック離れた高層ビルで仕事をしていた私も、昼休みに仲間たちの応援に行くのですが、会議室に戻れば同僚たちは戦争後の株価の心配をしています。仕事だから仕方がないと思うことができず、もうどうにも苦しくなって結局は退社。そして20代のうちは好きなことをしようと思って、あらためてピースボートに就職しました。


オーシャンドリームの甲板からの眺め(横浜港)


「太平洋に浮かぶ1つの島に暮らす自分」


――今度はメンバーとしての参画に。どのような仕事を担当したのですか。

主に洋上でのイベントや教育プログラムを企画する仕事をしていました。例えばインド洋からアフリカ大陸に入る時は、直前の寄港地からアフリカ太鼓(ジャンベ)の先生を招き、洋上で太鼓教室やアフリカンナイトを企画したり、格差・貧困問題に詳しいジャーナリストを呼んで話を聞くといったものです。

テーマを設定し、寄港地でその現場に希望者を連れて行くスタディツアーや、ピースボートでないと行けない場所や現地の人を訪ねるツアーも実施しました。現地にサッカー場をつくろうと日本で募金活動をしていた若者たちが、実際にお金を届けに行きながら、少し土木工事にも携わってみたり、現地の子どもたちとサッカーの交流試合をしたり。自分が経験したような、世界観や生き方にも影響を与えるような出会いをいかにして届けるかというのが私の目標でした。

3カ月のクルーズ中に実施する企画を、陸にいる9カ月の間で準備し乗り込むという生活はとにかく楽しかった。その繰り返しで気づいたら16年経っていたという感じです。まさに天職だったのかもしれません。

――その中でも特に印象に残っている企画は。

若者たちの洋上会議の開催後に、停戦前のパレスチナのガザ地区を訪れるツアーを実施しました。日本人など20人ぐらいが、相当な緊張感を伴って行くのですが、着いてみるとごく普通の人たちの生活がそこにある。きれいなお花でいっぱいの民家の中庭に招かれ、手作りのおいしい料理で温かくもてなしていただく。ところが、その数ブロック先には爆撃で破壊された民家がある。争いごとによって、ごく普通の暮らしが壊されているのだという現場では当たり前の事実を、そこで初めて体感するわけですよね。メディアからは伝わってこなかったことで、衝撃的な体験でした。

2回目の南周りの旅で寄港したタヒチで、先住民族の村を訪ねる機会がありました。そこで出会った村のリーダー、ガブリエル・ディギアラシ(ガビ)さんは今も師と仰いでいます。


タヒチの自然食材を前にガビさんと。ピースボートのスタディツアーにて


仏領ポリネシアのタヒチ近海では、90年代半ばまで核実験が頻繁に行われていました。ガビさんはずっと反対運動を続けていましたが、彼にとってそれは環境破壊への抗議にとどまらず、核実験の推進によって生じた島民の格差問題や衰退する伝統文化へのアンチテーゼでもあったのです。

核実験関連の仕事に従事する島民とそうでない人の間には大きな収入の差が生じ、暮らしぶりもがらりと変わる。食生活も一気に欧風化して伝統的な食の知恵は失われ、成人病も広がった。外資系ホテルの進出で物価は高騰し、プライベートビーチができて島民たちは排除された。それまでなかった様々な問題が噴出したのです。

彼はその問題について各国とのネットワークを駆使し、積極的に発信訴求したのですが、ユニークだったのは、フランス政府当局の目の前にタヒチの伝統家屋を建て、そこで自ら昔ながらの暮らしを始めてしまったこと。情報発信にとどめず、実際に身をもって伝統文化を取り戻そうという運動にまで広げたという、面白い人なのです。

訪問の際に彼が発した、「我々は海と共に生きてきたが、日本も同じだぞ。タヒチと同じ、太平洋に浮かぶ1つの島だ。我々は同じ、Pacific Islander(太平洋の民)なんだ」という言葉は、今も強く印象に残っています。1000年単位で見たら、確かに日本人も海あってこそ生きることができた民族です。「欧米を追いかける前に、海洋民族としての誇りと知恵を手放すな」だなんて、それまではまったく持ち合わせていなかった視点でした。


ガビさんの言葉が心に刺さる


――社会課題の現場を実際に見るというのは貴重な体験ですね。いくつもの出会いが今につながっている。

こうして、世界中で“様々な答えを生きている人たち”に出会ううちに、それを見ているだけでいいのか、自分は動かなくていいのかと感じるようになりました。スローフードでも、「郷土料理と生物多様性を守ろう」と言い続けるだけで自分は手を動かしていないのは格好悪いな、と思ってしまう。それはやはり、彼の教えによるところが大きいですね。逗子の海や山で採れる地元のものを、子どもたちと実際に料理して食べるなど実践できているのは、ガビさんの影響です。

世界には様々な社会課題が山積していますが、ピースボートでの16年間や自分の育児経験などから見えてきた自分なりの答えは、「グローバルな問題の解決策はローカルにある」「世の中の平和は子どもから始まる」ということ。そして「人は食べずには生きていけない」ということでした。人は結局、食べていくために喧嘩をするし、過度な開発など様々な問題も起こすのだなと。

3人目の子どもが生まれると、さすがに仕事しながらの子連れの旅は厳しくなりました。ならばいよいよ、地に足をつけて地域で何かに取り組もうと思って始めたのが、一般社団法人そっかです。「そっか、そういうことか!」と気づきを重ねながら、足元(足下 /そっか)から動く場を、子どもたちと一緒につくれたらと思って2016年に法人化しまし

現在、海と森を園庭とする保育施設「うみのこ」と小学生の放課後自然学校「黒門とびうおクラブ」を運営しています。うみのこは、逗子の森里川海をフィールドに、子どもたちが遊び、季節の手仕事に取り組み、自主性を育んでいます。とびうおクラブも逗子海岸と地域の自然を舞台にした放課後の遊び場です。走って、泳いで、パドリングして、素潜りして、カヌーやビーチサッカーなども楽しんで。秋冬は森にも入っていきます。季節に応じた活動で、子どもたちはもちろん、大人も盛り上がっています。

差別の気持ちも先入観も何もない子ども時代には、自然の大きさと世界の美しさに触れ、人間の温かさに受け入れられてほしい。それさえあれば、この世界はいい所だと身体でわかるようになる。そんな場を皆で作れたらという思いでやっています。


山も森も子どもたちにとっては格好の遊び場


――お子さんを持たれたことも生き方や考え方に大きく影響しました。

子どもが生まれるまでは、「人間活動で歪ができてしまったこの世界を、どうしたらもっとよい場所にできるか」が真ん中にありました。起きてしまった問題をどう解決できるかと考えていたのです。子どもができてから、それが少しずつ変わりました。

小さな子どもたちは、何度転ぼうと “自分にはできる” と100%信じていて、何にでも一生懸命向き合う。実現のための努力を怠りません。この世界は絶対にいい場所だと思っているし、周りを信じる力も持っている。それがいつからか、外的要因から、損なわれてしまうんです。もしかしたら、この「世界はいい場所だと信じて、自分も全力で努力する」子どもたちの育ちを邪魔しなければ、今ある社会課題はすべて、自ずと解決するのではないか。起こってしまった問題を大人で何とかする “対処法” よりも、次世代の育ちを邪魔しない ”予防法” のほうが、平和な社会づくりへの近道なのではないかという風に気持ちが切り替わっていきました。

自分の関心が、大人への環境教育や平和教育から子どもへの教育に移ったのは、やはり母親になってから。言うだけの格好悪さみたいな感覚はずっとあって、何かをやるならば大人だけでなく、子どもたちと一緒に動きたいと思っています。


麺も具もすべて子どもたちだけで準備する「うみのこ こどもラーメン」イベントのワンシーン


食のこと、子どもたちと一緒にできること


――ところで、アリスさんとの出会いはどのように。

アリスさんについて知ったのも十数年前、ピースボートでサンフランシスコに寄港した際のスタディツアーがきっかけです。

シリコンバレーやサンフランシスコ郊外のベッドタウンでは、2000年代には不動産が急上昇しはじめていました。古くからの住民が家を追われ、庶民的なお店も閉鎖に追い込まれ、チェーンのファストフード店が増え、それと共に子どもたちの食生活も貧しく、学校も荒れていきました。

予約の取れないオーガニックレストランを経営していたアリスさんは、荒れていた中学校を回復させるには、子どもたちの食から変えればいいのではないかと考えました。地元のマーティン・ルーサー・キングJr中学校の校長先生と話し、「学校に畑をつくりましょう!」と、1エーカーの広さがあった教職員用駐車場のコンクリートをはがし、数年かけて畑とキッチンに変えて教育の場としました。

これを「エディブルスクールヤード(直訳すると “食べられる校庭”)」運動と呼び、体系化すると瞬く間に全米に広がっていきました。子どもたちと一緒に畑を耕して、数学や理科はガーデンで学び、国語や社会はキッチンで考え、皆で共に料理をして食卓を囲む体験型学習は、今ではアメリカだけでも600校以上に広がっています。

教室での授業は座っていられない子どもたちも、ガーデンやキッチンでやる授業は出席率100%を達成。今では、全米の学習指導要領にも対応するカリキュラムが整えられています。たとえば、数学の面積計算なら教室ではなく、畑の大きさを測って計算してもいい。国語で詩を書くなら、キッチンで味見をしながら表現するのもいい。

初めてツアーを仕立てて現場を訪れた時は、食を通して自然に触れ、子どもから社会変革が広がる様子を見て、これはものすごい「答え」だと興奮したのを覚えています。こんなことをやってる人がいるのかと、創設者のアリス・ウォータースは、20代の頃から私のスーパースターになりました。そんな彼女の本を翻訳させていただけたのは、幸せの極みですね。

毎年100人の研修枠に全世界から応募があり、世界中に「エディブル教育」が広がっています。私も、エディブルスクールヤード・ジャパンのアンバサダーとして、日本でこの運動を広げる応援をしています。


うみのこの庭も夏になれば緑豊かなエディブルガーデンに
“私のスーパースター”アリスさんとのイベント風景


――小野寺さんにとって、「食」とは何ですか。

食は本来、自然そのものではないでしょうか。元々、人間はエネルギーも食べ物も半径数キロの圏内で得ていたわけで、1人では大変だから皆で支え合ってきた。それが人の暮らしだし、生き方だったはずなのに、都市化、近代化するにつれて分業が進み、人は食べ物を買うためにお金を稼ぐようになった。いつの頃からか、食べ物はお金で買うものに変わり、結果的に農園から食卓までの距離が離れてしまいました。

遠くから運ばれてきた食材の生産現場で森が破壊されていても気づかないし、自分が買った食べ物を作っている会社が、実は大量に廃棄物を出していてもわからない。自然が壊れたら私たちは生きていけないのに、その糧を壊し続けていることにさえ誰も気づかない社会構造を、自ら生み出すようになりました。

私が食べて本当に感動するのは、つくり手が思いを込めて土地を耕し収穫したものを「どう、おいしいでしょう!」と出してくれる時です。自分がそれを食べることで土地を傷めるのではなく、むしろ生態系の再生につながるような、そんな食べ物です。背景に伝統や地域性、ストーリーが垣間見えると、おいしさは増し、感動します。昔は全部そうだったはずで、だからこそ、その当たり前の食べ物に出会えた時に心が動くのです。とにかくそ
こを目指して、目の前にいる子どもたちと一緒にできることから始めたいです。


黒門とびうおクラブのみんなで元気に集合写真(逗子海岸)


――「そっか」の今後に向けて一言お願いします。

そっかはもともと、「私の子どもだけじゃなく、”私たちの子どもたち” をみんなで育てようよ」と声をかけて始まったコミュニティです。立ち上げから七年目を迎える今年、私を含め、初期メンバー子どもたちが中高生になったので、関わりかたは次のフェーズを迎えつつあります。嬉しいことに「うみのこで働きたいから」と他県から移住してきてくれる若い仲間がいたり、とびうおクラブを出た大学生がコーチとして戻ってきてくれるケースなども出始めています。そんな風に風通しよく人が出入りしながら、みんなが大好きな風景がずっと続いていく仕組みをつくっていきたいと思っています。

――ありがとうございました。


          *      *      *

サンフランシスコにある予約の取れないオーガニックレストラン「シェ・パニーズ」、そのオーナーであるアリス・ウォータースさんは、知る人ぞ知るの著名な方です。昨秋開催されたカリフォルニア観光局の講演会で、小野寺さんは「各地で様々な問題が山積する中、一番ポジティブな答えを生きているのがアリス・ウォータースさんです」との表現で紹介しました。確かにレストランも料理人の育成も、元々はビジネスというよりも社会貢献的に始めたものです。エディブルスクールヤードの運動もまさにそうです。
ピースボートで16年にわたって世界の社会課題の現場を訪ね歩き、船を降りては独自の保育施設や自然学園を運営、一方でスローフードやエディブルスクールヤードの活動にも関わり続ける小野寺さん自身もまた、話を聞けば聞くほど間違いなくそうした答えを生きている人でした。
講演で紹介のあった「食べるものをつくるなら、その人自身が幸せでなくてはならない」とのアリスさんの言葉も忘れられません。
海岸からもほど近い「うみのこ」に立ち寄ると、元気な子どもたちが、こちらが戸惑うほどにくったくなく話しかけてくれて、なんだかうれしくなりました。


武藤英夫 株式会社ジャパンライフデザインシステムズの編集担当。旅行会社、旅行業メディアを経て、現在はツーリズムとヘルスを足がかりにした生活者研究、情報発信等に従事しつつ、様々な形の人と地域のウエルビーイングの実現に取組中。





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