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動物観とバイオロギング観

(バイオロギング研究会会報 2021年10月号より)

先日、ロボット工学分野の学生さんたちが集まる研究会で講演する機会をいただきました。参加されていた方々は、動物が環境中でうまく振る舞えているメカニズムの理解とそれをロボットに応用することを目指しているそうです。

この講演の準備と発表をきっかけに考えた「動物とは?」「移動とは?」について、バイオロギング研究をしている皆さんのご意見を聞いてみたいと思い、この記事を投稿いたしました。

私にとって動物とは
もう10年も前(!)のことになるのですが、博士論文を書いていた頃に、当時指導をしてくださっていた先生から

「研究してきた動物はこういう生き物である、という自分なりの対象動物観があるはず。それを博士論文にぶつけるべし。」

というアドバイスをいただいたことがありました。

私は海鳥の行動、特に移動経路をバイオロギングで調べています。先生からそのように言われた後、「海鳥観…別にないな…」としばらくは思い浮かばなかったのですが、当時の私が最終的に出した答えは、「私にとって、動物は環境に転がされている球みたいなものである」でした。

凸凹や溝のあるところへ球を放り込むと、その凸凹や溝によって球の動き/経路がある程度決まってくると思います。そのような感じで動物も、行動を選んでいるようで選ばされているというか、そうしたいからというよりそうせざるを得ないからそうしているというか…。

これまでの私たちの研究では、コウテイペンギンはおそらく酸素消費量が一定量に達する前に水面へと引き返すルールで潜水していること(紹介記事)や、オオミズナギドリはおそらく夜間に海の上を飛ばなくて済むように巣に戻り始めるタイミングとルートを選んでいること(紹介記事[1][2])などを報告してきました。

もともとは動物のナビゲーション能力や帰巣能力のような「すごさ」のメカニズムを解明したいと思っていた気がしますが、実際には「何ができるか」よりも「何ができないか」を見ていることが多く、そういった制約が動物の動きの輪郭を作っていると感じるようになったのだと思います。その動物観は、その後に読んだ書籍などの影響も受けつつ少しずつ強化されて今に至ります。

図

左:「できること」を調べるイメージ
右:「できないこと」を調べるイメージ


…と、ここまで私見を述べてきましたが、このような動物の捉え方は別に新しくはなさそうです。例えば、移動コストの空間分布を表現したenergy landscape、捕食者分布などから推定されるlandscape of fearのように、特定の特徴量に注目して環境構造を推定することによって動物の行動を駆動する要素を探るランドスケープ解析などが既にあり、環境と動物を一体化したものとして扱うアプローチは割と一般的であるようにも思えます。

さらには、ロボット制御においても環境との相互作用によって生じる運動パターンが注目されているそうです。動物研究でもロボット研究でも、動くもの本体と環境を切り離さずに見ることが鍵になってくるというのは興味深いと思いました。

動物観のひさびさアップデート
話を戻しまして。冒頭の研究会の発表準備をしながら、なんとなくひっかかっていることがありました。

一つは、上述のように動物の「できないこと」を中心に見てきた私にとって、動物は環境中でうまく振る舞っているというよりは様々な制約の中でなんとかやっているというイメージが強かったため、動物がロボットのお手本的な存在になっていることに違和感を覚えたこと、もう一つは、ロボットを動かすためには多かれ少なかれ制御則が必要であるという話を読んだことで、(本当に本当にあたりまえすぎることですが)動物が環境に転がされているだけであるはずはないよなぁと思い出したことです。

それらのひっかかりについて考えている時にふと、動物はどこでもうまくやれるわけではないな?ということに気が付きました。これまた何をいまさら…と思われそうな話ですが、ロボットのお手本として動物を見直してみると、いつでもどこでもお手本のような振る舞いができるわけではなく、「うまくやれる領域」からはみ出せば環境との関係性は失われてしまい、もはやうまくは振る舞えなくなるよなぁと思ったのです。環境とうまくやれる領域に留まれるところに動物の主体性があるのかもしれません。

そんなこんなを踏まえて、「動物とは」を改めて以下のように整理しました。

動物とは、
・資源や安全な場所を求めて移動する生き物
・うまくやれる領域内に留まれる生き物
である。

そして「うまくやれる領域」と「うまくやる方法」は、身体の構造や知覚特性などの動物自身のスペックと環境の組み合わせでおおよそ決まる。結果として、動物は環境に転がされている球のように(自由に行動を選んでいるのではなく選ばされているように)見える。

バイオロギング観もアップデート
「動物はうまくやれる領域に留まりつつ移動する生き物である」と考えると、バイオロギングは「動物がうまくやれる領域」の輪郭を記録することを可能にした手法であると言えそうです。

そして私の研究では、どのような要素を考慮すれば記録されたその輪郭が「うまくやれる領域とうまくやれない領域の境界線」となり得るのかを考える/調べることによって、動物や動物行動の実態を理解しようとしているのではないか、とスッキリ整理し直せた気分になっています。

それで…?
このように動物観やバイオロギング観をアップデートしたことによって何か新しい研究が生まれるのか、自分以外の人にとっても嬉しいことは何かあるのか、肝心のところはまだ掴みきれておりません。引き続き考えていきたいと思っていますが、暫定案を箇条書きしてみます。

◾️ たくさんのデータを集めていくと、例外的に「うまくやれない領域」にはみ出してしまったケースが記録されることがあります。研究会に参加されていた方から、そういう時の振る舞いや境界線ギリギリの領域での振る舞いを調べることで、うまくやれる領域に留まれる仕組みを理解できるのではないか、というコメントをいただきました。これまではうまくやれている行動や説明可能な行動に注目しがちでしたが、次のステップとしてそこから外れた行動をじっくり調べることも確かに重要そうです。

◾️ 既存のランドスケープ解析にもうひと工夫を加えて、うまくやれる/やれないの境界線を推定できたらいいなー

◾️ できることなら、動物たちと「うまくやれる領域」の関係が形成された進化の過程についても切り込んでみたいなー

これといった結論のない長文になってしまいすみません。もしよかったら、皆さんの動物観やバイオロギング観についても教えていただけたら嬉しいです。よろしくお願いいたします。

※ この記事を書くにあたり、共同研究者の方とのディスカッションからアイデアやヒントをたくさんいただきました。ありがとうございました。


関連文献↓ ※出会った順

『アフォーダンス』
(佐々木正人 著)

『Power of Movement in Plants』(Charles Darwin著)

『生態学的視覚論: ヒトの知覚世界を探る』(ジェームズ・J. ギブソン 著)

『野性の知能』(ルイーズ・バレット 著)

『共創システムと無限定性 ―安心な社会システムの回復をめざしてー』
(三宅美博, 2006, 日本機械学会誌)

『知能はどこから生まれるのか?:ムカデロボットと探す「隠れた脳」』
(大須賀公一 著)


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