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こわさとよわさ

この半年内で2人から「こわい」と言われた。
1人は僕の容姿(禿げているので伸ばすと薄いのが目立ちダラシがない感じがして嫌なので割りと短めの坊主にしている)を指して(いたと思う。ジェスチャー的に)「こわいですね」と言われた。久々さの再会でもあったので、とある理由で身体もかなり緊張してしまっている状態で言われたので、「たしかに」と言ったような「そうですね」と返答したような、、、あまり記憶がない。
もう一人は今も関係がある人からで、あまり書くとこれは特定できてしまうので明言は避けるけど、まあ、関係の中で仕方が無しに感じるのかもしれないけど、そこには同じように容姿に伴う印象も大きいだろう。ただ、シチュエーションとしては沢山のいる人の前で、しかも少々ウケて冗談になっていた。(その人自身の意図はどうだったのだろう?)

生まれ持ったもの、変えられないもの、お金や時間があれば取り戻せるがすべての人が平等には持ち得ないもの。僕は割りと「恵まれた体格」というものを親の遺伝でもらい自分でも気に入っている。しかし、人から羨ましがられたり、この体格だからのちょっとした苦労を「ちょっとしたことなんだから」と勝手に僕が思ってもない人と比べ「ありがたい」と思わそうとされたり、そういうことにだいぶ傷付いてきた。知らんがな、と。
知らないうちに、勝ち組という名の加害者のようなラベルが、僕の、この、体格には貼り付けられてきたような感覚がある。自分から身長を積極的に誰かと比べたりしたことはないと思う。それは自分の自尊心が低いから、体格よりも、態度の方が僕にとっては影響がある。苛つく人が僕は怖い。特に意味がわからない、苛つきを、平然と表す人は特に怖い。
小学校6年のとき、図書司書の先生に「大きいものより小さなものが可哀想」という、世間なのか「あなた」なのか分からないが、この僕と比較して誰かを「可哀想だ」と知らず知らずにラベリングし偏見を発露していることに気づかず真剣に怒られたとき、何と言い返したら良いか、ずっと心に引っかかっていた。知らんがな、ではないな、とは思う。僕のことも誰かのことも大きな主語で知った口を聞くな。かもしれない。

たぶん、僕は容姿的にも、雰囲気的にも、そして今は法人の代表として権威性も大きい立場にあり、体調が悪くても不機嫌に思われやすいだろうし、実際のところでは相談のつもりが指示・伝達だと思われてしまって行き違ったりしやすいこともある。以前働いてたあるスタッフとは毎週打ち合わせしていたはずが、チーム内外に「話が出来ていない」「話の意味が分からない」と冗談を超えて他方に相談していたことが後で分かったときは、だいぶ閉口したし、自分の考え方やあり方も具体的に変えていかなければとも思った。相手は変わらない。変えようとしない。それは自分の鉄則でもある。自分は自分でしかない。人との関係の中に自分を開いていく、特に理解を求めたい相手にこそ、相手からの理解を待っていては何も変わらない。そういうことを沢山の人から学んだ。

「こわい」と言ってきた2人になぜこんなにモヤモヤするのかといえば、きっと、僕から見えている態度が矛盾したからだろう。1人はある意味ジェンダーや福祉などの社会的な問題にコミットしていこうとしていて、とあるコミュニティでも積極的にバイアスに対して違和感を積極的に表明しているような人でもあるからだ。もう1人は、その人自身が境界線について考えをしっかり持っていること知っていたからで、その上で「こわい」という言葉が正直に出てきたことに対するモヤモヤだろう。
人がどれだけ悩んだり真剣に考えたりしているかは表層ではわからない。僕のことを理解して欲しいとかは思わない。「こわい」と言った先に何を見ているんだろう。表層的な、禿げ、ヒゲ、デカい、男、何かの団体の代表、だったら、それは僕ではない。2人目の人から、同日にあった別の機会に「その怖さが弱さでもあるんですけど」とフォローされた。知ってるなら、最初にそのフォローも入れて欲しかったなーと思いつつ、人からどう見られているか、それは自分自身のスタンドまたは呪いを自覚するための手段だったりもする訳で素直に受け入れたい。最近、少しずつ読み進めている『男が男を解放するために 非モテの品格・大幅増補改訂版』。

著者の杉田俊介 @sssugita さんの補論②は涙なくは読めなかった。

いや、僕の息子はきっと親譲りの体格になるだろうし、杉田さんの全く全てを共感や理解できたというのは僕の傲慢な期待でしかないのだけど。親として子の寝顔を、子を叱ってしまった後の後悔や、保育・幼稚園や仕事と育児の兼ね合いや、これからのどうなるだろうという漠然とした不安や葛藤と、様々な考えや感情を綯い交ぜになりながら読んだ。「お父さん」と呼んでくれる「君」にとってこんなにも心配性な親はここにもいて、親というのはつくづく弱いものだと改めて感じている。2000年代の僕の福祉の仕事を支えてくれた本の著者に、親となり違う本で支えてもらえるとは。生かされているということは、こういう感覚の連続なのかもしれない。

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