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感動したいだけなんだろう(か、僕は?)

「感動したいだけなんだろう。」
そんな事を障害をテーマにした作品評を読んで思ったりしてしまうことがある。それはそっくりそのまま自分の価値観を貫き刺し、痛い。ある種の当事者性を背景に書かれた文章や作品に触れ「当事者の一面である障害のことだけにとらわれず、その心情こそ深く響いた」とか言うレトリックを良く触れるし、ともすれば僕自身もそう言ってしまっていることがある。しかし、当事者としての一面がその人の人生の多くを構成しているこの現実に対し、尊敬とはどうしてできるのか。言い表し方やそこに至る文章のバリエーションは沢山あっても、心情にフォーカスするなれば知るべきことは障害者の生きた人生の轍、その痕跡を社会や歴史、制度に触れず潜らぬことは避けれない、避けてはいけないのでは。そして時間もかかる。もたろん障害は障害者の一面、しかし当事者性として個人タル自己の全体を覆うような「部分」に触れることは、そうでない側にいると錯覚してしまう僕のような人間としては怖い。誰かを傷つけてしまうかもしれない、と感じる。しかし分かりやすく感動される側に追いやられた者の悲しみこそが、差別を照らし明らかにする。そのことに恐ろしさを感じる僕は、「自分が感動したいだけなんだろうか?」と問う事を忘れないようにしたい。

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