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膜の向こうにある世界

 今日は思いがけずリベルテへ来訪者も多く、昨日も1日ゆっくり話を聴いていただき、そして明日もイベントの打ち合わせ。来て下さる人は、マスクや距離感に、見えない心遣いを感じることも多いです。
 一方で、こわばったような見開いた瞳をサングラスで隠し、まくしたてるように小言を言いにくる人も。人のことをすごく心配して(文句も沢山)くれるのだけど、ぼくはその人のことが少し心配だから、招き入れていたのかも。
 人に会うことが怖いとマスクやサングラス、インターネットやそれを介する液晶やデスクトップが優しい膜になり、その恐怖から守ってくれる。
でもそれだけじゃ、足りないとも思ってしまう。その向こう側にいる人や出来事も求めているし、何とかしたいと思うこともある。それって何なんだろう。ぼくもそう思いました。

 この1年ぐらい、リベルテの事務机の前に座ってしまうと事務というか、総務と言うかそういう書類仕事が始まってしまいます。6月に入り、数字や文字の羅列(もちろん、そこには意味があって)と、現実の人と物事の動きとすり合わせるために毎年義務で提出しては戻ってくる書類に向き合う時期があります。今日もその手直しなどをしていました。NPOってめんどくさいなーって思う。この部分がクローズでいいなら、どんだけ楽なんだろう。
でも、こんな事務的なやりとりの中にも、その向こう側にいる人を想像する瞬間が沢山あります。書類に入る訂正指示の文字の入れ方や一文一文チェックしただろう鉛筆の後。県職員らしい真面目で神経質さも感じつつ、一生懸命だなーとも思う。ぼくはしたくないし、できないから、こちらがわの仕事をしているんだなと変な納得もしたりします。窓口の対応でも、そこにいる人の振る舞いや姿、その場の様子から少なからず、そこいる人や関係性を想像したりもします。

 職業安定所で今日、窓口対応してくれた若い女性職員の人は、昨年度いたオシャレなファッションの女性の雰囲気に似ていました。そこにはある意味言語ではない「思想」のようなものがあるようにも感じました。
 昨年度もその係で何度か対応してもらったとき、窓口の女性はハローワークという軽やかなネーミングに対して殺伐とした雰囲気の施設の中で穿つような服装で、何かしらの意思を感じました。オシャレだなーと。だけど公務員としてはトンガり隠せてないよなーと。同じようなに今日窓口対応してくれた人にもそんなことを感じていました。言語化はできないんだけど個人の「思想」や「意思」のようなものが服装で表現しているようにも感じました。で、その職員がそういう服装でいられたのも、たぶん、たぶん勝手な想像だけど、いつも同じ窓口の担当している大々先輩だろう女性職員の人にも同じような「意思」の気配があります。その人がいることで、そこで働く女性は、そうケアされているんじゃないかなーと。
 ビニールのカーテンの向こう、窓口の机を挟んで「向こう」と「こちら」があることで、余計にその現場にある「膜」をぼくが勝手に感じたのかもしれません。

 息子と娘は相変わらず、互いに通じ合っている。父は未だ蚊帳の外だ。「子どものことだ」と言ってしまえばそうなんだろうけど、彼と彼女の世界から眺めることができたら、ぼくの(信じている)世界はどう見えるんだろう。
 相手の世界に立って「わたし」の世界を見てみる。それはとても怖いことでもあるけれど、自分が守られている膜の向こう側にやっぱり世界があるのだと思う。だけどその膜が、強度を持つにはそれが「何なのか」という意味やタグ付けが必要になってくるんだろうなと思います。そのタグがカテゴリーのような強固な属性を示すことで守られるコミュニティもあれば、構造的な差別を生み出すことすらある。
 今、ぼくが個人的に試みている「その人の世界を手放しに勝手に信じてみる」ということは、全てをひっくり返そう、膜を剥がしてしまえという実験ではなくて、ハッシュタグのように文脈(コード)で紐付けれたタグから少しずつ、自分を解放していくプラクティスなのかも。

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