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我が家の「家出」事情

家出について、身近な人が考え向き合い、言葉を交わしている。いいぞいいぞと思いながら、自分はどういう立ち位置でいいぞと言っているのか。

この夏は総務の仕事の宿題もなく子どもと遊ぶ時間や、精神的な余裕があり珍しく読書もしたし、Spotifyでラジオなんかも聴いた。Spotifyで「care-radio(ケアラジ)」というネットラジオを聴いた。『彼岸の図書館』や『手づくりアジール』という本の著者の青木真兵さんがゲストの会だった。

https://open.spotify.com/episode/3zrLsHcxxgYQe5O39dNRqu...

社会との折り合いと、社会から逃げ出す術や意味について、特に後者について話が展開していて面白かった。積読していた『手づくりアジール』を開いてみたら、『男はつらいよ』の寅さんの「家出」について冒頭の章で紹介されていた。

『男はつらいよ』の劇中において、日本全国の豊かな自然や消えゆく風景とともに映されるのは、自然の中で生活を営む人びとの姿や、困っている人を「コスト度外視で」助ける寅さんの姿です。寅さんはこの「コスト度外視」という社会システムの外部に触れるために、故郷と日本全国を行ったり来たりしているといえます。社会の総中流化、標準化は、社会の内部が合理的な「水臭い」資本主義的原理によって構築されていく過程です。そこから逃げ出し、「コスト度外視な」世界に触れることで、寅さんは生きる力を取り戻すことができた。でも彼は、その世界の断片を実家にも求めてしまう。その結果、またも大喧嘩の末「水臭いじゃねぇか」という台詞とともに、家を飛び出すことになってしまうのです。
(中略)
すぐに出ていってしまう寅さんを、帰ってくればあたたかく迎えてくれる故郷は、 本来は社会の外部にあるものです。しかし寅さんから見れば、社会の外部であるはず の故郷や家庭が水臭くて合理的な社会によって浸食されてきている。寅さんが「おいちゃん、それをいっちゃあおしまいだよ」と発するとき、彼は「おじさん、そんなドライなことを言ってしまうと、コモンズであるはずの家庭や故郷が社会のシステムに侵されてしまうよ」と警鐘を鳴らしているのです。

P.24-26「闘う」ために逃げるのだ『手づくりのアジール 「土着の知」が生まれるところ』青木真兵

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昨年までは妻と子二人には群馬の実家へ「家出」してもらい、僕も昼間は職場へ「家出」し、仕事をしていた。それぞれ家出と仮定して共通して見えてきたのは、半分選択しているが、もう半分は仕方がなしに「家を出て」いることだ。お互いに「家出」をすると、夏休み中の福祉施設は当たり前だけど誰もいないので僕は必然的に自分の時間というものも増え、仕事はあるが、家事や子どもの世話などが必要のない時間ができる。

妻は子どもたちがセットにはなるが、実家にいけばジジババが子たちを引き受けてくれるし暴れまわる子たちを怒ることも減る。父母それぞれ様々な事情や社会との関わりがあって子育てもある、ということ自体が、古い価値観からも新しいトレンドからも合理性の中で見えづらくなっている気がする。子どもたちにとって、父母が正しくいる、ことよりもどう遊べるかのほうが大事だ。

そういう意味で子どもがジジババの無限に溢れる愛情に触れ、カブトムシを毎朝取りに出かけ、永遠に同じおしゃべりする3歳児と1時間も会話する時間は、この先、計り知れないものを子たちに与え、そしてジジババたちとってもそうだと思う。僕の「家出」している/させている後ろめたさを他所に。.

ちなみに、今年はジジババに我が家へ「家出」してきてもらっている😂


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