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小説 電子禁煙 第五章 進化と欲求

 光の明滅と超音波を組み合わせることで、脳に強制的に興奮物質を分泌させ、人類を気持ちよくさせるという恐ろしい仕組みを、自分が勤める会社のデータベースから盗み出した技術を用いて、スマホアプリとして再発明したシメジであったが、この技術にはまだ改良の余地があるのではないかと感じ始めていた。有効なパターンはあの研究資料にあった一種類だけではなく、より強い興奮と快楽を与えるような別種のパターンがあるはずだと思ったシメジは、パターンの微妙な変化をランダムに発生させる機能をアプリに組み込んだ。画面での見た目は常に同じだが、ユーザーは煙草を吸うたびに、毎回、異なる光と超音波を浴びるのである。
 シメジの立てた仮説が正しければ、これによって、時にユーザーはさらなる快楽を、運が良ければ味わうことになるはずである。シメジは最近、何のためにアプリを開発しているのかわからなくなってきていたが、それでもアプリを改良し続ける意欲とそれを実現する技術力だけは不思議と高いままであった。

 アプリは当初から、利用者の情報を匿名の状態で収集していたから、吸った場所と時刻、吸うのにかかった時間、呼吸の回数、そして音と光のパターンのログが約1000万人分というまさしくビッグデータとしてシメジの手元に貯まり続けていた。独占企業NTといえども、いつ、どこで、何分ぐらいの間、どんな煙草を吸ったかというデータは持っていない。もし存在するのなら、喉から手が出るほど欲しいに違いないが、当然ながら、そんなデータは収集することは不可能である。それが今、シメジの手元にはあった。それは無限大の価値を持つ。まさにとびっきりのお宝データであり、活用しない手はなかった。
 ログを解析してみて、シメジの予想は確信に変わった。パターンと喫煙時間との間に一定の関係性が見られたのである。ある特定のパターン群の時、ユーザーは最大可能喫煙時間として設定している5分ギリギリに近い時間まで吸っていたが、別のパターン群の場合1分ほどでアプリを終了させていたのだ。これはそのまま、おいしい煙草とおいしくない煙草とがあるということを示していると解釈できた。これは即ち、味や快楽という官能評価の対象を、純粋な数値で表現できてしまった画期的な事件であった。
 このデータを土台にし、さらに喫煙の間隔や、一日当たりの喫煙回数、他のパターンとの関連性などの要素をパラメーターとして加味することで、シメジはパターンを、強度を基準とした13種類に分類することができた。これは、ビッグデータとそれを活用するための並列分析技術の力によって、短期間でいきなり13種類の銘柄の煙草が完成したということを意味していた。超巨大組織NTですら1年間に新しく発売を開始する煙草がマイナーチェンジやフレーバーの追加を含めても30数種類であるから、13種類というのは一人の人間ができることの領域を超えていると言って言い過ぎではない脅威の成果だった。さらに、その中には、医学的、人道的、倫理的に本当に世に出すべきか躊躇するほどの、煙草という範疇を越えている”強烈な”効果をもつパターンもあった。もし公開するとしたら、これをどうやって提供すべきか、シメジの悩みのタネが一つ増えた。

 平日の朝。いつもならまだ熟睡している朝ぼらけ。シメジは自宅の外の騒がしさに目を覚まし、飛び起きた。もしかして、ついに自分の存在が世に知られてしまい、ユーザーやマスコミが押し寄せてきたのではないかと心配し、カーテンの隙間から窓の外を見たが、そうではなかった。騒がしさの原因は、道を挟んで向かいの交差点近くにある書店にできていた人だかりのせいだった。カーテンを全開にし、「ここにいるよ!」と思いながらじっくり眺めてみると、それは開店を待つ人の行列であることが分かった。列を整わす店員らしき姿もあった。なぜ、こんな時間にと思ったシメジはSNSで検索してみると、他の人の投稿から、それは人気アイドルの写真集を買い求めるファンによるものだということが分かった。
 「なんかうるさいから目が覚めて、外見たら、家の向かいの本屋に行列出来てた。写真集ぐらいネットで買えばいいのに」と独り言を投稿して、もう一度外を見たら、行列はさらに長くなっていた。シメジの投稿を見て返信してくれた他人が「店で買うとなんか限定グッズが付くらしいですよ」とか「好きなものになら金と時間を惜しまないんですよ」とか教えてくれて、シメジにはある記憶がよみがえった。
 それは今から数年前、この部屋に引っ越してきて最初の秋のことだった。猛烈な強さの超大型台風の直撃によって、会社が臨時休業となったシメジは、何もすることがなく、まだ馴染めないこの街の風景を窓から眺めて、時間を潰していた。外はすでに暴風雨が吹き荒れており、当然人気はなく、時折、バケツやサンダル、ビニール傘が通りを転がっていった。雑居ビルに取り付けられていた縦長の看板が激しく揺れて、今にも外れて飛んでいきそうになっていた。そのうちに、さらに雨脚が強くなって、いよいよ台風の最接近を思わせた。そんな時、歩道を一人の男が歩いてくるのが見えて、シメジはわが目を疑った。この暴風雨の中、雨合羽を着たあの人は何をしているのだ。消防やレスキューの関係者だろうかとも思ったが、そういう職種特有の正義感が男には漂っていなかった。前のめりで強風に向かって歩く男。よほどの用事があるに違いない。シメジは気になってじっと観察していた。ところが、男は、書店の敷地内にあった自販機で煙草を買い、大事そうに雨合羽のポケットに仕舞うと、踵を返して、今しがた歩いて来た道を帰っていったのだ。シメジの部屋の窓ガラスには大粒の雨が叩きつけられ、外の様子さえもはやはっきりと見えなくなっていた。煙草を買うだけ? シメジは理解できなかった。煙草が切れた愛煙家は、こんな台風直撃の最中に、わざわざ雨合羽を着て、壊れたビニール傘が一直線に飛んでくるかもしれぬ、重い看板が頭上から落下してくるかもしれぬ身の危険をも顧みず、自販機に煙草を買いにやってくるのか。命よりも優先される煙草への欲求。率直にすごいと思ったシメジであったが、そのすごいは尊敬よりも恐怖に近い感覚であった。
 また少し伸びた行列の最後尾でプラカードを持って、行列が歩道を塞いでしまわないよう頑張って整理している店員を眺めながら、「雨が降っても風が吹いても、煙草を欲しがる人は売っている場所まで行く…」と誰に話すわけでもなく声に出してつぶやき、頭の上に電球が浮かんで光った。シメジはアプリの大幅バージョンアップに取り掛かることを決めた。

 朝から生活リズムを崩されたシメジであったが、出勤後、閃いたアイデアを形にすべく、さっそくプログラミング作業にとりかった。何はともあれ、必要なのはアレだ。まずはデータベースのダウンロードである。あの、何の面白みもないと思っていた自販機のデータベースが今は金色に光り輝いて見える。価値とは使い途の有無であるのだ。いつもの勝手口からログインし、あっさりと全国の全自販機の位置情報を手に入れたシメジは、自身のサーバへそれをコピーし始めた。少しずつ進むプログレスバー、さすがにデータサイズが大きく、すぐには完了しなさそうなので、並行してアプリの改良にとりかった。
 シメジは、今まで、画面をタップすれば無条件、無尽蔵に手に入っていた煙草を、自販機の位置情報と組み合わせて、自販機の設置されている場所に実際に行かないと手に入らないように変更することにした。一度利用した自動販売機は当分の間利用不可能とし、別の自動販売機の場所に行っても一定時間は連続で煙草を入手できないという制限も設けたので、これによって人は外出せざるを得なくなる。面倒でも皆はこのアプリを使うのか否か。シメジによる、国民を巻き込んだ壮大な実験であった。また、利用者は自販機の前まで行かないといけないので、おのずと他人の目に触れるようになり、それが未成年の利用の抑止につながるのではないかという期待もあった。
 さらに、この位置情報連動システムに、あの、パターンで分類した銘柄というコンセプトを組み合わせた。それぞれの自販機一台ごとに、手に入る銘柄の確率が異なるようにし、より”強烈な”銘柄ほど、レアリティを高めた。つまり、手に入る自販機の数を少なくしたのである。自分の欲しい煙草を手に入れるためなら、どんな時でもどこまででも人は歩いていくのだろうか。嵐に打たれる雨合羽の男の背中を思い出しながらシメジはコーディングを進めた。

 アプリの大幅バージョンアップが完了し、新しい仕組みがスタートした途端、ネットは罵詈雑言、呪詛の声、そして殺害予告で溢れた。自由に煙草が手に入らなくなってしまったことを当然ながら改悪であると捉えられたのである。シメジはある程度そういうリアクションがあることを予想していたので、別段、驚くことはなかった。殺害予告には最初はゾッとしたが、それもすぐに慣れて、そもそも、亡霊のような、いるのかいないのかすらよくわからない謎の作者をどうやって殺すんだという、透明人間としての愉快さを楽しみ始めていた。
 ネットが荒れたのも一時的なものであり、論調は数日後にはすっかり平静を取り戻していた。利用者は渋々ではあったが、自動販売機の前まで行って、煙草をダウンロードした。”ヘビースモーカー”達は日々新たな自動販売機を開拓するべく、あたりを見回しながら、街を徘徊するようになっていった。それは脳をアプリに支配されたデジタルなゾンビのようであった。
 ログを確認すると、バージョンアップ前後でアプリを使用しなくなったユーザーは全体の1%未満であり、これはほぼ誤差と考えてよい範囲であった。煙草を吸いたい人たちは外出を強要されてもなお吸い続けたのである。
 位置情報との連携についてはある程度すんなり受け入れられたのに対して、銘柄については、アプリの中で詳しい説明がなされていなかったせいもあり、様々な噂や主張が飛び交った。最初のうちは、単なるコレクション要素であるという意見が大半を占めていたが、徐々に銘柄ごとの”味”の違いを感じ取り始めた敏感な利用者が、レアリティとおいしさの比例関係について指摘するようになっていき、やがてそれは喧々諤々の大論争となった。
 旧時代の煙草が個人によっておいしさの好みが異なるように、新時代の煙草の味も個人によって感じ取り方はさまざまであった。ログデータから抽出した喫煙時間をベースとして分類した銘柄システムではあったが、その基準は万人共通とまではいかなかった。なので、誰かが投稿したおいしさランキングは必ずしも全員に一致するわけではなく、それどころか、十人十色のばらつきがあり、ある者は他人を「レアリティに惑わされているだけの馬鹿舌」と扱き下ろし、またある者は「レア銘柄が手に入らない負け犬の空しい遠吠え」と揶揄した。
 すべてのユーザーが「銘柄は12種類である」と思っていた、そんな中にあって、あるユーザーがレア中のレアである、まさかの13番目の銘柄を手に入れたことを動画サイトで公開し、その味の”強烈さ”について、実際に喫煙する様子とともに解説した。この動画は瞬く間に再生回数を伸ばし、拡散されていった。ところが、手に入れた場所については公開しなかったことから、圧倒的な再生回数と相まって議論はさらに混迷を深めることとなった。「そもそも、そんな銘柄は存在しない。この動画自体がフェイクであり、あれは演技だ」という意見や、「銘柄はあるかもしれないがそんな明確な味の違いはないはずだ」という意見、さらには、「今後まだ発見されていない未知の銘柄が登場するだろう」と予想する者もあらわれて、もはや収拾がつかない状態になっていた。

 良くも悪くも過熱し続けていたネットの盛り上がりとは対照的に、もはやNTの売り上げは明らかに毎月連続の右肩下がりとなり、それは社内の誰もが、あのアプリのせいだと認識するようになっていた。社員ですら自社の商品を買わないようになり、アプリのためにこっそり夜の住宅街を歩き回っている有様だった。住宅街には煙草の自動販売機が少なく、自然と遠くまで歩かざるを得なくなったせいで、メタボが改善し、禁煙の効果と相まって健康診断の結果が去年より改善した社員が、何かスポーツでも始めたのと周りから聞かれて、お互いアプリをインストールしていることは社内では口外していないから、腹を探り合う、気まずい空気になったりもした。夜間の外出を知られたくないので、社員寮を退寮する若手社員さえ現れ始めていた。
 お客様センターのソテイの上司も、ついにアプリの存在に気がつき、「ジミー・ウィンってだれだ」と部下に聞いて回った。だれからともなく、ジミー・ウィンへの問い合わせのせいで回線がパンク寸前であることが知らさせると、なぜ今まで報告がなかったのかと声を荒げた。「あなた以外全員知ってたんじゃないんですかね」とソテイは思ったが、もちろん黙っていた。慌てふためく上司は、激怒はしてみたものの、長きにわたってセンター内のホウレンソウが全く機能していなかったという、管理職としての自分の失態に気が付いて、歩きながら失神して倒れた。
 アプリのせいで社内の業務が機能不全に陥っているのはお客様センターだけではなかった。自動販売機の製造と保守を手掛けるベンダーマシン部では、自販機を破壊して金銭を盗み出す自販機荒らしに対する抑止力、および、自販機を利用する人の行動をAIで解析し、より使いやすい自販機を開発するために、繁華街の自販機コーナーに防犯カメラを設定していた。特に、AIの開発には多額の資金を投入し、ベンチャーのIT企業と共同開発した期待の新技術であった。しかし、憎きアプリが位置情報と連携したせいで、自販機の周辺に人が集まるようになり、しまいには自販機が見えなくなってしまい、カメラが目的を果たせなくなってしまったのだ。映っているのが人の頭ばかりでは、大金をを投じて開発したAIも出番がなかった。とはいえ、悲しいかな、もはや自販機で煙草を買う者はほとんどいなくなっていたから、自販機にも大金は入っておらず自販機荒らしも激減していたし、自販機を操作する人もいないから、AIによる使いやすい自販機の開発ももう必要なかった。

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