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小説 電子禁煙 第四章 電話と亡霊

「お電話ありがとうございます。NTお客様センター、ソテイでございます」デスクで電話を取り続けるだけの毎日。通話が終われば、また次の電話が鳴る。その繰り返し。それを繰り返す。
 NTに入社以来、ソテイはコールセンター部門ひとすじで、数えきれないほどの問い合わせに対応し続けてきた。コールセンター部門という部署はは、華々しさとは無縁で地味な存在に思われがちだが、しかし実際には社内でもトップクラスの多忙さを誇る。世界を飛び回って忙しそうなふりをして、実際は国際線の機内で大半を寝て過ごす海外仕入れ担当などよりもよっぽど密度の高い激務をこなしているのがコールセンター部門の面々なのだ。

 お客様からの問い合わせ電話、と聞くと、商品への異物混入や数量不足のクレームをを想像するかもしれない。しかし、現代の完全オートメーション化された無人の工場で生産されるマスプロダクトである煙草においては、そのような事故はめったに発生しない。お菓子やパン、缶詰、清涼飲料、化粧品などの工業製品と比較してもその不良品の少なさは割合でみて一桁少ない。だから、もし、そういう電話がかかってきたとすればほとんどの場合が、あわよくば金品をせしめてやろうと企む輩の虚言であり、長年電話対応してきたソテイにはなんとなく相手の口調でそれが嘘か本当かがわかった。
 不良品のクレームでなく、電化製品のような操作方法についてでもない、煙草メーカーにかかってくる電話というのは、はっきり言ってもっとつまらない。そして腹立たしい。例えば、商品がモデルチェンジしたわけでもないのに「最近味を変えたでしょう、前の味に戻してほしい」などという勝手な言いがかりはまだましな方で、「コンビニで煙草を買ったら、店員の態度が悪かった、どのような教育をしているのか」という的外れな苦情、「箱の中に1000円札を折りたたんで入れておいたのを忘れて箱ごと捨ててしまった。弁償してほしい」という責任転嫁、さらには「煙草を冷凍庫に入れたらまずくなった。凍らしてもまずくならない煙草を作ってほしい」という意味不明の要求などさえある。そして、世の中にはそういう頭の悪い閑人が多くいて、彼らのせいでお客様センターにある数十台の電話は朝から晩まで鳴りっぱなしなのである。
 しかし、どんなにつまらない内容の電話であっても、お客様の声には耳を傾けねばならない。一言一句まで漏らさず拝聴し、程よい間隔で相槌を打つのが、お客様センターで働くスタッフに課せられた使命であり、お客様センターの皆がそれを全うしていた。そして、その代償として、大工の利き手に金槌のマメができるように、サッカー選手の生え際がヘディングによって後退するように、電話オペレーターの心の一番深い場所にはストレスが溜め込まれていく。それはソテイも例外ではなく、毎日の電話応対によって蓄積されたストレスは、苛立ちの炎によって、心の中の鍋でぐつぐつとあぶくを立てながら煮詰められ、時には焦げ付いて煙を上げていた。いまや、刮いでも取れない、真っ黒なタールのようになっていた。

 そんなコールセンターに、ある頃から、同じような内容の電話が頻繁にかかってくるようになった。それはとある社員に関する問い合わせであった。
 電話をかけてきた人たちは異口同音に、「ジミー・ウィンという人に繋いでほしい」と言ってきた。社員を名指しする電話がセンターにかかってくることは珍しい。特定の社員に連絡を取る場合、名刺には部署直通の電話や携帯の番号が書いてある。名刺を持っていなくても大代表の電話番号があるのでそこにかければよい。強いて言えば、証券会社か不動産の営業マンが誰かれ構わず絨毯爆撃の電話をかけてくることがたまにあるぐらいである。そんなときは折り返しますとだけ言って電話を切り、その社員に電話があったことだけを伝えるのがオペレーター達の常套手段であった。しかし、ジミー・ウィンの場合はそうはいかなかった。なぜなら、そんな名前の社員はいなかったからだ。非常に多くの社員を抱えるマンモス企業NTではあったが、退職した人間を含め、社員名簿のどこを探してもジミー・ウィンなどという名前は見当たらなかった。さらに、かけてくる相手もどこかの営業マンではなく、ほとんどが個人であり、直接の知り合いでもなさそうな口ぶりであったので、ソテイもそんな電話を取ってしまったときは何も対応のしようもなく、「申し訳ございません」とだけ言って電話を切っていた。
 ソテイは、最初のうちはイタズラだろうと思い、特に気にしていなかった。ところが、同じ内容の電話が毎日かかってくるようになり始めた頃から、だんだんと不気味に感じるようになっていた。その口調は決してふざけておらず、嘘をついているようにも思えなかったからだ。まるで透明人間か亡霊のような目に見えない存在が、自分のことを背後からじっと監視していて、私を弄んでいるのではないかなどいう悪趣味な想像をしたりもした。外部の『マナー向上なんとかカンパニー』がNTに依頼されて抜き打ちの電話応対チェックを実施しているのかとも疑ってみたが、「いますか」と聞かれて「いません」と答えるだけの、あまりに中身のないやり取りで終わってしまう電話ばかりなので、その線も消えた。もしかしたら、海外の事業所にいる現地の契約社員やアルバイトなのではないかとも考えて、JimmyなのかGimmyなのかWinなのかWinnなのか、もしかしたらWynなのかと手あたり次第調べてみたが、誰も該当する人物はいなかった。仲の良い後輩にもこっそり尋ねてみたが、そんな人は知らないとそっけない返答であった。今までのオペレーター人生でこんな奇妙な事は経験したことがなく、ソテイは困惑していた。客の嘘を悉く見抜くソテイにも亡霊の姿は見えなかった。ジミー・ウィン、ジミー・ウィン、ジミー・ウィン…。誰ですかお前は?

 透明人間が気になっても、クレーマーに腹を立てても、電話が鳴りやんでくれるわけではないから、日々の仕事はせねばならない。今朝もソテイはいつもの時間に席に着いて、ヘッドセットを装着した。使い慣れたキーボードとマウスにじっと目を遣る。マウスの右隣にコピーの裏紙を使った自作のメモ帳とボールペン、パソコンのディスプレイの左隣にペットボトルの緑茶を置くのがソテイの臨戦態勢だった。壁の電波時計の短針が9を指した途端から一斉に電話が鳴り始める。自動的に振り分けられた回線が、ソテイの席の電話機を光らせる。脊髄反射でソテイは受話ボタンを押して通話を開始する。
 「お電話ありがとうございます。NTお客様センター、ソテイでございます」
 「あのー、そちらにお勤めのジミー・ウィンという人に繋いでほしいのですが」
 まただ。今日は一発目からこれか。ソテイはため息をつくのを我慢し、煮えたぎるタールが噴き出さぬよう圧力鍋にねじ込み式のフタをして、もはや言い慣れてきた返答を繰り返す。
 「申し訳ございません、弊社にそのような名前の社員は在籍しておりません…」
 今日の相手は引き下がらなかった。そして事態は進展し始める。
 「え、そうなんですか。いや、いると思うんですけどね。電子煙草NEOっていうアプリの、開発者のジミー・ウィンっていうひとの連絡先にこの電話番号が載ってるんですけど」
 「アプリ?ですか?」予想外の展開に、少しばかり口調が砕けてしまったとソテイは自己分析した。しかし、アプリって何なんだ。
 「インストールしたんですけど起動しなくて。開発者の人のホームページもないし、説明書とかもないから、とりあえず載ってた番号に電話してみたんですけど、ここじゃないんですか?」
 ハイテクに疎い人たちはすぐに電話をしてくるのだろうか。ハイテクに疎いから電話で解決しようとするのだろうか。電機メーカーのコールセンターにはどんな応対マニュアルがあるのだろうか。掃除機の紙パックの交換方法を電話で説明するのは難しそうだな。などと考えつつ、手元のメモ用紙に”アプリ”とだけ書いて、ソテイはもう一度謝った。
 「申し訳ございません、そのような者は弊社におりませんので、アプリについてもわかりかねます。申し訳ございません」
 受話器の向こうの、顔すら知らぬ人にこれ以上どうにもならないと悟らせる絶妙のタイミングの謝罪によって、ソテイは電話を切らせた。

 ソテイは何となく事情が呑み込めてきた喜んだ。その後、他の電話に出ている間も、点と点が線でつながる感覚は消えることがなかった。どうやら、電子煙草に関係するスマホアプリがあって、その開発者がジミー・ウィンという名前らしい。アプリだなんて想像もしてなかった。そして、なぜだか知らないが、この上なく迷惑なことに、そいつは、うちの会社のお客様センターの電話番号を自分の連絡先として掲載しているのだ。しかしながら、ジミー・ウィンなどという人物はこの会社にはいないし、うちはスマホアプリの開発もやっていない。電子煙草のアプリって何なんだ。
 ともかく、そんなことの問い合わせをうちに言ってこられても、こちらとしてはどうすることもできない。アプリの存在を知って一歩前進した気になっていたが、次にまたかかってきたとしても、今までと同じ返答しかできないわけで、結局、何の解決にもなっていないのではないか。ソテイは喜の後に憂を感じた。そして、もどかしさによって生み出される怒りの矛先をジミー・ウィンに向けるのだった。
 そもそも! 実在するのかしないのかすらわからないジミー・ウィンとかいう亡霊みたいなやつが、自分の連絡先にうちのお客様センターの電話番号を載せたせいで、こっちは電話対応をいつも以上にやる羽目になっている。オペレーターの仕事なんて、電話に出る回数が1件でも1000件でも給料は同じで、ストレスが溜まってもストレス手当なんていう気の利いたものがあるわけでもないのに、最上級につまらない仕事を増やしやがって。何がしたいんだ、ジミー・ウィンって奴は! ソテイはむかついていた。何もかも爆砕したくなった。アプリの内容などどうでもよかった。
 かといって、ジミー・ウィンに苦情を言ってやろうにもその電話番号はうちのコールセンターという、堂々巡り。その構図が余計に腹立たしかった。もし本人に出会ったら思いっきり蹴っ飛ばしてやりたい気分だった。

 NTの他の部署であれば絶対にありえない事であったが、ソテイは謎の人物ジミー・ウィンとアプリについて把握できたことを、上司に一切報告しなかった。ソテイの独断ですべて握りつぶしたのだった。ソテイには懸念があった。もし、正直に報告してしまえば、あの口うるさい上司や他部署の人間から根掘り葉掘り訊かれるに違いない。さらに関連する過去の問い合わせ内容を事細かく書類にまとめて提出させられるだろう。馬鹿な上司のことだから、「ジミーって誰だ?」と訊いてくるかもしれない。それが分からないから報告しているのに。クレーマーよりレベルの低いことを聞いてくる上司。慌てふためくだけで何の指示も出さない上司。その光景が容易に想像できるから、報告する気など端からなかった。すでに多忙極まるコールセンター業務なのに、これ以上仕事を増やされてはたまらない。とてもじゃないが、そんなことはやってられない忙しさだったのだ。
 実のところ、他のスタッフのなかにも、ジミー・ウィンとアプリの関係に気付いている者は少なからずいたのだが、皆がソテイと同じような考えであったから、だれも口には出さなかった。後輩のそっけない返事も、もしかしたらそういうことだったのかもしれないとソテイは後になって気が付いた。忙しすぎる電話オペレーション業務と部内の風通しの悪さと上司の人望のなさのせいで、ジミー・ウィンなる亡霊は電話オペレーター達の心の中に、しばらくの間、封印され続けるのであった。

 ところで、シメジはどうしてジミー・ウィンという偽名を使ったのか。それに関して練りに練られた作戦があれば、話はドラマティックになるのだが、本人には特に明確な理由はなかった。アプリを登録する際に、必要に迫られて、ふとなんとなく思いついたというか、天から降ってきたというか、頭の中に湧いたのがジミー・ウィンという名前だったのである。シメジの好きな海外ドラマの登場人物のニックネームがジミーであったが、それは偶然の一致だろう。深く考えずに作った名前ではあったが、自分の名前とも似ていないし、ちょうどいい。これならバレることはないだろうと思い、この名前にしたのだった。
 電話番号がお客様センターなのは、喫煙できるアプリとしての、NTに対するちょっとした皮肉であり、ヒントでもあり、挑発でもあったのだが、名前同様、自宅や自分の携帯の番号を書くわけにもいかず、適当な番号を書いて、それがたまたま使われている番号で、関係ない誰かに迷惑をかけてもいけない。そんな消去法の答えとして、NTの社員なのだから自分の会社の電話番号を書いておいたのが、実際のところである。
 しかしながら、アプリが爆発的に普及していく中にあって、いまだシメジの存在が世にバレていないところをみると、たとえ思いつきと消去法の結果であったにせよ、仮名と電話番号のカモフラージュ効果は信じられないほど十全に機能していた。そのおかげでシメジ=ジミー・ウィンは透明人間のまま、さらにアプリの改良を続けていくのだった。

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