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物語のなかの言葉

言葉がこんなにも溢れていて、一日中煩く流れているのに、それでも私たちはなぜ言葉を求めて、本を読み、書き続けるのだろう。

自分の内側にある言葉が、私の言葉であるとは限らない。誰かの体験したことが、考えたことが、とても共感できるなら、あるいは黙ってはいられないほどの衝動に駆られるのなら、それはほかの誰かの言葉であっても、語られるべきことのように思う。分かりやすい言葉はどんどん借りてしまえばいい。

なにかを表現するのも言葉で、なにかを伝達するのも言葉だ。絵や映像、写真も同じく、なにかを伝えると同時になにか表現している。その二つが混在しているせいで、ブックオフの本棚みたいにインターネットには情報も物語もあらゆるものが、等しく順序立って並んでいる。すべてが整然としたルールで並べ替えられた検索システムの世界では、分かりやすく広まった言葉ほど見つけられやすく、分かりにくく何気ない小さな言葉は見つけにくい。

人の内面的な感情は、外に向かう言葉には薄く仄かに映し出されるだけで、たいていは内側に奥深く仕舞い込んでいる。でも私が探しているのは奥底にある言葉で、それは物語のなかに隠れていることが多い。

インターネットから情報みたいな言葉は全部なくなってしまえばいいのに、と時々思う。物語のなかの言葉だけが残った景色を、バグでもいいから一度見てみたい。

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