見出し画像

文学部の友人の話

数年ごと、たまに会う大学時代の友人がいる。
彼いわく、星の軌道が交わるときのように数年に一回、お互いにそれとなく会いたくなったタイミングでうまく会えている、と。そういう言葉を恥ずかしげもなく言えて、少しも違和感がないのは、私の友人で彼だけだ。

彼は、文学部のなかでもとびきりの文学青年で、いまも文学を専門に大学で職を得ている。彼も結婚し、ちょうど今年二人目の子が生まれた、という。

私は彼が持つ独特の空気感が好きだ。文学的で幻想的な独特な世界観、世間ずれしていない清流のような思考、美的なセンスに裏打ちされた言葉選びや文脈。誰とも話せない、彼としか話せないようなことがいっぱいある。わたしがふらふらと世の中をほっつき歩いているあいだも、彼は思索にふけっていて、きっと私には想像もつかない深い深い物語の世界に入り込んでいる。

近づきすぎず、遠すぎず、彼との関係性、距離感、はとても心地よい。特にふだんは連絡は取り合わないし、お互いにそれぞれ全く違う道を進んでいる。でも、数年ぶりに連絡を取り、たまに会えば、大学代と変わらない調子で話し、近況はほどほどに、さまざまな問いをお互いに投げかける。

考えることはいつも、人生のことだ。生きる、ということ、社会の流れにどう身をまかせるのか、と問う。ここ数年で変わったこと、変わらなかったこと、お互いに変わらないなにかがあって、それはいまもそうなのか。

彼と、いま自分たちはちょうど人生の折り返し地点くらいにいる、という話をした。そうか、まだ半分も生きるのか、と思うとちょっとくらくらする、たぶんそんなに生きないと思う、と言うと、案外生きてしまうものだ、と諭される。私たちは、わりと自由に生きている。だから自分で次に何をしたいか、見定めないと、次に進む気力がなくなってしまう。生きる理由をいつも探している。やることがある、そういう人は強い。

また、2,3年後、会ったときにはお互いどうしているか、わからない。どこで会えるかもわからないし、何をしているかも想像がつかないけれど、彼と話すことはたぶんいつもと同じだろう。池に石を投げるように問いを投げかけ、その波紋をみつめながら静かに話をする。そういう時間や、話す相手がいることがありがたくて、彼には感謝しかない。どうしようもなくつらいとき、ではなく、落ち着いたときに落ち着いた心で話す。いつかまた、会って楽しもう。


読んでいただいて、ありがとうございます。お互いに気軽に「いいね」するように、サポートするのもいいなぁ、と思っています。