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怒りと言葉

「怒り」はときどき必要だ。もちろん、それが苦手な人が多いし、わたしも苦手だ。自分が怒るのも、怒られるのも、誰かが怒られているのを見るのも、いやだ。

人はときに怒れと言うけれど怒ることのできない感情の中に留まり続ける人もいる。だからこそ怒りを表明できるものについては、どんなに大きな声で叫ぼうとも構わない。怒るということで、それはすでに他者と共有できるものとなっているはずだから。
怒りという感情はそれそのもので社会化されている。怒る対象を見つけられているという時点で怒ることのできる感情の道を、他者の力によって掘り進められることもある。それがフェミニズムのエンパワメントの力なんだと思う。
しかしその手前にある悲しみ、不安、寂しさはどうだろう。この「私」という小さな部屋の中で、どこからくるのかわからない喪失を抱えている人は、その強烈な感情が自分からくるものなのか、もっと遠い場所からくるものなのか、対象さえもわからない。
『マザリング』 p.161

怒りの、その手前に悲しみや心の傷や喪失のようなものがどうしてもある。傷つきたくて傷つく人なんていないし、でもそういう傷をどう処置していいかわからなくなることもある。いつでも、ただしく手当ができるわけじゃないし、ケアされるべきときにケアされない。そういうときに、暗がりから「怒り」という感情が沸き起こってくる。それはよい力ではないかもしれないし、怒りだけでなにかが解決できるとも思わない。

けれど、人が生きていくうえで、「怒り」という感情もまた必要なのだと思う。喜び、楽しむだけではなく、怒り、哀しむことが、なにかを前に進ませる。なにかを変えるには力が必要で、ときにはそういう力も必要なときがある。じゃないと、人生やってられない。
理不尽なことが多い世の中で、怒ることも奪われてしまったら、行き場のない気持ちをどうすればいいのか。いつも笑っていられる「いい子」じゃなくてもいいし、抱え込んでも仕方のない気持ちを「怒り」という感情で発散するのもいい。それが、誰かにとっての救いになることもあるし、自分が助けを求める手段にもなる。

「怒り」を言葉にすること。暗がりのなかで、吐き出す感情は決して気持ちのいいものではないけれど、そういう言葉もまた大事にして前に進みたい。

生が前に進むためには暗がりが必要である。生を育む暗がりの暖かさ、おぼろな、まどろむような眠りをかつて私も味わったのだろう。『マザリング』


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