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強者の論理は正論だから辛くなる

「強者の論理だけど」と添えられた言葉は、だいたい正しい。

契約を結ぶときは口頭ではなく書面(電子でも)をもって結べ、とか、交渉・主張できる術を身に着けてちゃんとした報酬をもらおうね、とか。労働者の権利をちゃんと知って、理不尽な要求や違法労働は訴えよう、とか。

全部、正しい。正しいけれど、それはやっぱり強い人だから言える言葉で、弱い立場にいる人ほど、そんなに強く出られない。ここで関係性が切れたら次に行く場所がない、仕事がもらえなくなる、苦労して就職活動をしてやっと入った職場なのに、と、いろんな弱みが、正しい主張をさせないようにブレーキをかける。

そして、強く言えないあなたが悪い、それで体を壊すまで働くのが悪い、と自己責任論になってしまう。そんな不幸が世の中にはあふれている。

自分の努力で、自分でなんとか道を切り拓いて、ここまでやってきた、と思う人ほど、そうした自己責任の気持ちが強くなる傾向がある。個人主義、競争社会を勝ち抜いてきた自負がある。私は強く交渉できるまで必死で努力し実績を積んできたし、法律の知識も身に着けたのだから、と。

でも、そんなふうに努力できない人もいるし、不器用な人もたくさんいる。やりたくない頼まれごとを断れない気弱な人もいる。私はそんな人に、自分と同じように努力して、ちゃんと知識を身に着けて、なんて言えない。
もちろん私の持っている知識を伝えることや、こういうやり方があるよ、と教えることはできる。私もたくさん失敗してきて、そのたびにこの知識があれば…と思ったことは山ほどある。逃げ道や迂回路を探すのも得意だ。もし正論を言われて困っている人がいたら、「真に受けるな」とアドバイスする。そして、逃げ道を一緒に探す。

正論で身を固めることはできるけれど、やっぱりそれは窮屈だ。正論どうしで殴り合ったら、強い人が勝つ。そして、今の社会で成り立つ正論は、だいたい強い人の論理で作られている。

「特権」という言葉は、なにか特別な地位とか、特別な存在が持つ権利ではなく、「ふつう」の人が持っている「正論を振りかざす権利」に近い。そういう正論は、社会的に弱い立場の人を簡単に追い詰めてしまう。

じゃあ正論を振りかざさずに、生きていくにはどうしたらいいの。どうやって自分の身を守ればいいの。努力して「特権」を手にした私が悪いの?

あなたは強いからいいよね、という言葉に責められる気持ちもわかる。けれど、強い人は、自分でいろいろ新たな知識を身に着けることも、学び直すことも、そして少しずつ社会を変えていくことも、きっとできる。
「特権」を持っていることはなにも悪いことでもないし、恵まれたことに感謝すればいいだけだ。そんなことより、どうすればみんながちょっとでも生きやすい社会になるだろう、ってことに頭を切り替えて、使いたい。

正論を使いこなせる能力は、使い方次第で誰かを守る力になるはずだから。

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