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赦しには長くて複雑な時間と過程が必要で

ちょっとつらい話をするので、無理に読まないでください。

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いじめも暴力も虐待も戦争も、全部相手をひどく傷つける許せない行為だ。

加害、被害という関係は、大きな視点でみればすべての人に関わってくる。

わたしは日本に生まれている、昔起きた戦争の加害者の子どもたちである。かといって、加害意識を持てと言われても難しいかもしれない。ただ、それが私が生まれるはるか前のことでも、その子どもや孫まで故郷に帰れないまま、ここに生きるしかなくて、私のすぐ近くで、いまもちくちくと胸の痛む経験をしていることを知っている。

傷つけられ、いじめられた、そういう経験をいつまでも許すことができなくてもいい。私も私を傷つけたひとを許すことはできない。会いたいとも、謝ってほしいとも思わない。ただ、どこかですれ違いたくもない、と思うだけだ。

もっと赦しや寛容さが必要だろうか。それは誰のためのものだろうか。もし、その赦しが、強い権力を持った側に利するようなものであれば、到底受け入れることはできないし、そういう人たちが「許し合って仲良くしよう」なんて都合の良すぎることを言うのは、ただただ苛立つだけだ。寛容さのある社会が、権力者に都合のいいものになってはならない。

弱いものが、弱いものどうしで争うときに、本当に許してはならないのは、それを操っているなにか大きな力で、構造のようなものだ。

2つの写真集に込められた、途方も無い感情を抱えきれずに眺めている。

1994年、ルワンダで起こったあまりにもひどい事件のなかで、生まれてきた子どもと母を撮影した写真。そしてその語り。

それからさらに10年が経ち、生まれてきた子が大人になり、自分が生まれてきたことの真実を知り、育ててくれた母に起こった凄惨な出来事と向き合うことになった、その語り。

長く、複雑な時間と過程を経てもなお、ひどく深い爪痕を残して、その暴力の痕はずっと残る。平和な世界にいるマジョリティな私たちが、にわかなセラピーを学んだところで、「赦し」についてはなにも分からないだろう。
どうしていいかもわからなくて、それでも生きていかなければならないのに、傷つけられた側がなぜ「赦し」まで求められなければならないのか。
生きていくための、少しでも希望を見出すための術として、それを身につけ、救われるならいい。それでも、許すことも許さないことも、自由に選んでいい。それぞれの選択を、どうかそっと見守っていてほしい。


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