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「人それぞれ」で終わらせない

人それぞれ、という言葉はどこかさみしい。

なんでだろう、とふと思う。「結局みんな人それぞれだよね」で会話が終わる。そうだ、人それぞれいろんなことを選べて自由でいられる、人それぞれに好きなものがあって、いろんな考え方があっていい。
結婚をする、しない、子どもを産み育てる、しない、自分で料理をする、しない。車を持つ、家を持つ、それらを持たない。子どもにスマホを持たせる、ゲームをさせる、制限する。仕事をずっとしていたい、家庭と両立したい、自分のすきなことをしたい。みんな人それぞれ。

でも、同時に一歩踏み込んで話すことができなくなる。どんなふうに生きて、どんなふうに仕事をして、どんなふうに老いていくのか、私たちには考えることがたくさんある。でも、人それぞれだから、それぞれの生き方に口を出さない、振り向かない、というのはなんか寂しい気もする。

一緒に考える、ということをしたい、と常々思っている。一人で考えていても答えの出ないことがいっぱいあるし、人それぞれで割り切れないこともいっぱいある。世の中、わからないことばかりだから、わからないことをわからないよねぇ、って話がしたい。

子どものこともとても不思議な存在だと思う。なにを考えているかわからないし、どこを見ているんだろうと不思議だ。大きくなっても、なんでやねんって行動をいっぱいしてくる。子どもの発達はそれぞれかもしれないけれど、どんなに手のかからない子でもその「わからなさ」と親は戦って、ときどき楽しんでいる。

それぞれの行為や主張を「人それぞれ」と受け入れる社会は優しい社会と言えるのでしょうか。私はそうは思いません。人びとの行為や主張を「人それぞれ」と受け止める社会には、その言葉が発された瞬間から、対話の機会をさえぎるはたらきがあるからです。
『「人それぞれ」がさみしい』p.49

そこで対話を途切れさせてしまう「人それぞれ」はその人を尊重しているようで、どこか合わない部分を遠ざけてしまっているのかもしれない。そうやって合うところだけを探してそうだよね、と意気投合して、合わないところは「人それぞれ」で済ませてしまう。その繰り返しが、いつかどこかで分断を産んでしまう。結局気の合う人どうしが集まり、排除される人が出てきて、でも「人それぞれ」だからしょうがないよね、となってしまう危険をはらんでいる。

多様性、人それぞれ。みんな違ってみんないい。言葉は都合よく使えてしまうものだから、私は疑いたい。それって本当に人それぞれなのかな、って。「人それぞれ」に選べない人もいるんじゃないのか、みんなの想像する「人それぞれ」の範疇を超えていたらどうするの?「人それぞれ」とそういいながら、自分と違うものを、集団に入り込めないものを、のけ者にしてないだろうか?私はいつも自信がない。自信がなくて、人それぞれで終わらせたくないし、それで済ませようとする自分自身を疑っている。


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