見出し画像

2015年大地の芸術祭、民俗泊物館の記録

当時の記録をそのまま、書き起こしています。5000字近いのでお暇な方はぜひ。

2015年 8月26日

16時 集合
16時集合ということで、大阪を車で出発したのが朝の6時半。途中休憩を含め、高速を走らせても車で約7時間半。富山を超えたあたりで、さらに新潟まであと半分というなかなかの絶望感。日本海、綺麗…なんて余裕もあまりなく、無心で車を走らせる。
十日町の町は山と川に挟まれた美しい場所。

画像1

16時半 千手温泉へ
民泊研究員として今回一緒に参加した長津さん、石橋さん、そして今回の『民俗博物館』作品の館長、深澤さん。後から知ることになるが、長津さん、石橋さんは、深澤さんと同じ東京芸大卒のアート系NPO所属員。超専門家たちの中に、ど素人が紛れている。

まず温泉に案内してくれたおかげで、運転の疲れも多少癒える。
今回の民俗博物館の要旨は、十日町の住人の家に泊まって、お話を聞いて、地域のこと、そこにかかわる人のことをまとめて、何かしらの展示にする、というもの。
こうしたフィールドワーク的な地域調査や語り聞きは、学生時代に幾度か行ったことはある。けれど、それ自体をアート的な展示にする、というのに興味があって参加している、という軽い自己紹介をする。
あとは、みんなの来歴を聴く。多様性・境界、そんなテーマで長津さんは研究活動をしている。深澤さんはよく分からない、地域住民の参加型アートを作ることが多い。どちらも、アートという枠から社会につながる領域に広げていて、興味深い。

画像2

17時半 樋口さん宅へ
今回泊まらせていただく民泊先は商店街から5分ほど歩いたところにある昭和町の樋口さんのお宅。
樋口さんは10年以上前に奥様を亡くされ、以来おひとりで住まわれているそうだが、都市部で孤独ゆえに早死してしまう独居老人のイメージを全く感じさせない、ありあまるパワーと包容力のある元気な84歳の男性。

画像3

そして、隣家に住む関口さんご夫婦とその甥っ子も同席。旦那さんは、シャイな性格とのことでしたが、とても優しいお人柄のにじみ出ている方。一方の奥さんは、これまたパワフルな活力があふれている。雪国の人はたくましい。
そんなバランスの取れたご夫婦と、とてもしっかりした甥っ子とともに早速、樋口さん特製の夕食のちゃんこ鍋をいただく。なぜ、「ちゃんこ鍋」かは、後々の語りで知ることになる。

画像4

樋口さんは、長年、十日町市の特産品でもある織物を力士に卸す仕事をされていたという。そのため、今回の聞き語りでは相撲に関するエピソードや史料が数多く登場する。
私は相撲に関しては、本当に一般的なことしか知らないので、内心やや不安になりながら、会話に参加。しかし、あわただしくも祭りの準備のため、ほとんどちゃんこを食べる間もなく、浴衣の着替えをすることに。

19時 十日町おおまつりへ
ここで、一旦商店街で行われている十日町おおまつりへ。商店街の真ん中にあるご自宅で、貸し着物や着替えスペースを提供してくださっているミチコさんの家で、一同着替え。

中心市街地活性化チームに混ぜてもらい、大民謡流しに参加。

画像5


ちなみに、ミチコさんは、芸術祭を中心街にも根付かせようということにも尽力され、その人脈をもって町の多くの理解を得られた方だという話も。

地域の祭りもある中、大地の芸術祭のような大掛かりな参加型アートフェスティバルも受け入れる、というのは、住民にも相当な覚悟が必要だ。

ミチコさんは、後に行われる打ち上げも中心的に働いておられ、町に対する思いの強さを感じる。私自身、このとき自治会長をして、夏祭りで完全燃焼していたのだけれど、強い思い入れをもった数人のおじいさん・活動的な地域の女性の力が祭りの継続には欠かせないことを実感している。

画像7

『大民謡流し』はいくつもの小グループが商店街の本町通を、地元の謡に合わせて踊り歩く。基本的な動作は盆踊りに近いが、その地域独特の民謡は、見様見真似。次第に踊りながら周りの風景も見えてくる。俄(にわか)と呼ばれるこの山車は、かなり自由な作りで、特に若い衆の「面白いからやってみてる」的な変わった山車もあるのが特徴だ。

画像6

画像8

20時半 打ち上げ

新しく公民館を立ち上げるというプロジェクトが進んでいるこの中心街の地域。その建設以前からソフト面でもコミュニティづくりを行おうと建設現場のプレハブ小屋のひとつを「ブンシツ」として利用しているそうで、そこで軽い打ち上げが行われる。
中心街活性化の関係者、建築事務所の関係者、芸術祭関係者、そして私たち民泊研究員、といろんな所属の人が一つ所に詰め込まれたようで、なんともいえないよそよそしさが漂う。
もともと知り合いの一人もいない私は、それほど気にならなかったのですが、なかなか席に座らず、どうしていいか分からない人、ちぐはぐな雰囲気はある。

実際、大きなの規模のお祭りだと、こうした複数のグループが入り混じった場での飲み食いはよく起こりうる。いろんな人が一つの空間に集まってしまうのが、お祭りなのだと。祭りのあとのこうした微妙な距離感もまた、楽しめばいい。

画像9

21時 再び樋口さん宅へ
改めて、ちゃんこを囲みながら、樋口さんのお話。

画像10

樋口さんは、札幌にある機農高校を卒業(調べると現在はアグリクリエイト科となっているよう)。

当時は、戦後間もない時期でもあり、栄養不足に陥りがちだった時勢。樋口さんも脚気にかかり、体力をつけたいと思ったところで、相撲部に入部。ちゃんこを食べ、体を鍛え、体重も90キロに。84歳の今も毎週のように趣味でゴルフを楽しむことができるほど、ガッチリとした体つきは、この当時に作られた。
その後、学校で得た知識をもって、牛飼いなどの仕事に就くものの、地元の産業でもある、織物産業への危機感から織物の製造・卸を一貫して行う会社を起業。その卸先に選定したのが、力士・相撲部屋だった。
本人は、たまたま仕事でも相撲に関わることになってしまったと言っておられたものの、潜在的に相撲部の経験が、業界への知識・関心、そして営業先としての愛着につながっているはずだ。

画像11

樋口さんの仕事人生は決して楽なものではなかったらしい。仲卸を使わないことでの批判や反発をくらいながらも、力士のオーダーを丁寧にくみ取り、その信頼を勝ち得たことで、今も事業継承を経て続いている会社を築き上げる。
樋口さんのご自宅には、小錦に着物をこさえたときの写真や、時津風・稀世ノ里などに送る名前入りの反物、樋口さんが勧進元(主催)として行われた十日町場所での番付表など、相撲にまつわる品が、あちこちに飾られている。

画像12

「十日町市の織物と相撲」という視点で、インターネットで検索をしても、全く見つからない。翌日、気になって十日町情報館にも立ち寄ってみたが、わずかな時間ではその手がかりはなかった。
しかし、織物と相撲をつなげた歴史が、確かにこの個人宅には存在し、それが眠っている。まるで「相撲ミュージアム」のようだ、との声が上がる。
個人の語りからしか見えてこない歴史が確かにここにはあった。

こうして、ちゃんこから始まった樋口さんの家での語りは、「相撲」が大きなキーワードとなる。すっかりお腹いっぱいになり、お酒もそれなりに飲み、疲れと酔いで頭のなかの整理はまだつかないまま就寝。

2015年8月27日

6時半
とても贅沢な朝ごはん。金時豆で作ったお赤飯。再び腹いっぱいになったところで、樋口さんの家のはす向かいにある「nekoronda」という施設へ。

画像14

画像13

7時半 nekoronda
こちらは、関口さんの運営する引きこもりのためのコミュニティスペース。場所も時間も、すべて持ち出しで、ほとんどボランティアで運営している。「nekoronda(ねころんだ)」というネーミングも、「あんたたち、いまどういう状態?」と尋ね、自分たちで考えたものだそう。

画像23

画像15

備品の多くは廃校(芸術祭の会場でもある奴奈川キャンパス)で使われていたものを頂いたらしい。なかでも、面白い使われ方をしていたのが冷蔵庫でした。ホワイトボードが欲しいという要望に応えたもので、よく見るとコンセントが抜かれている。そして、その中には運営に関わる事務用品や、わりと大事なものまで。食べ物は入っていない。

画像16

既存の使われ方に囚われず、その場にあった役割を果たしているこの冷蔵庫は、この施設を象徴しているようだった。

画像17


9時 廃村・星名新田 
関口さんの生まれ育った場所、星名新田へ移動。既に廃村となった集落で、今は一部の耕作者のみで棚田で稲を育てている。
一般立ち入り禁止のチェーンのかかった鍵を開け、でこぼこ道で生い茂った山道を進むと、ようやくその集落にたどり着く。

画像18

奥深い山間に、鮮やかな緑の穂をきらめかせているその風景はとても美しい。
山を開墾し、棚田に水を流すためのマブと呼ばれるトンネルをつくり、そこでの暮らしを作り上げてきた歴史が、覆いかぶさるような茂みの中から垣間見える。

今はもう、全ての家は取り壊され、その面影はないが、関口さんは正確に各家庭の井戸の場所を覚えており、ここは台所で、こっちは風呂場、と私たちには見えない風景を案内してくれる。

画像19

関口さんの家のあった場所の裏にある池では、カエルたちがぷかぷかと漂い、心地よさそうにしている。そして、長いこと開けられることのなかっただろう井戸のふたを開けると、大量のスズメバチが襲いかかる。一同離散して逃げるものの開けてはならないものを開けた感がすごい。

捨てられた集落とはいえ、関口さんの記憶の中には、いまだ往時の風景が残っている。聞き語りでは、その風景は再現することはできないし、人の通らなくなった道は、いずれなくなってしまう。建てられた立派な廃村跡の石碑も苔むしていき、いずれは田んぼも消えていく。

画像20

見えない風景の存在は、関口さんの語りからしか知りえない。私たちが関口さんの記憶のすべてをたどることは到底できないけれど、断片的なそれらに触れることで、ここに確かに人々の暮らしがあったことを感じ取れる。池でぷかぷかと安らぐカエルと、井戸を守るスズメバチは強烈な印象を私たちに与えてくれて、この廃村の記憶として新たに残る。

画像21

まとめ

大地の芸術祭の行われているこの十日町市にとって、アートは日常のなかに置かれた非日常なのかもしれない。
あるいはそれが徐々に新しい日常になりつつあるのかもしれない。

一方で、ここを訪れる私たちのような外からの人間は、アートもこの場所の自然も、暮らしも全てが非日常として体験される。

画像22

山梨で『こうふのまちの芸術祭』を主催していた五味文子氏は

“誰かの日常は別の誰かにとって奇跡みたいだ”
(民藝運動としてのアートフェスティバル/「アサヒビールメセナvol.27」2010)

という。この言葉は、私の大好きな言葉としてたぶん何度も引用している。

私たちが日々経験している私たちの日常が、他の誰かにとって奇跡みたいな非日常である、と気づくのは難しい。
大学で織物を学んだ彼女の言葉は、

まちという経糸に、アーティストという緯糸を織り込むことで、でき上がる可能性は無限大だ。そこで暮らす人間にとってはあたりまえのことも、外から来たアーティストにとっては、意外な面白みであったりする。

と続く。
アーティストに限らず、あたりまえの日常の中にある面白さは、生活の外から来た人全員が共通に感じることができる。

この面白さは、普段なんでもないと思っているようなところに転がっていて、なんでもない会話のなかから発見される。
大阪から新潟まで、「なんでこんなとこまで来たの?」とさんざん訝しがられながらも、こういうのが面白くて大好きなんです、と思いを何度も私は語った。

画像24

わずか二日間の短いあいだにも、たくさんのだれかの日常に出会い、そこでしか生まれ得ない固有の人生、ライフヒストリーを教えてもらえた。それはどこを調べても載っていない、貴重なものばかりだった。小さな歴史や物語、そういうものがいっぱいあって、語りからしか得られないものがある。だから、ここにも記録として残しておきたい。



読んでいただいて、ありがとうございます。お互いに気軽に「いいね」するように、サポートするのもいいなぁ、と思っています。