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今日も明日も、お腹は空く。

年末年始な感じがしないのは、今年は実家に帰らず、ずっと家にいるせいだ。

とはいえ、明日も、また年と月が変わって、また変わらない日常が続いていくだけなのだけど。

この「日常」という言葉について、何度も何度も考えた。

日常について、ドキュメンタリー映画を「ありのまま」で撮って伝えることの難しさを延々と紡ぐ佐藤氏の文書に触れる。彼も何度も日常とはなにか、それをありのまま伝えるとは何か、ありのままとは何か、とずっと考えてきたのがわかる。

少し前に、炎上したホームレスの日常に踏み入って軽々しくインタビューする記事があったが、あんな無作法なやり方はここにはない。ときどき、若い社会学者でもやらかしている、と思う。

誰かの日常に触れることは難しい。人の日常はとても平々凡々としたもので、そこに他人が入ることは、単純にその日常を特別ななにか違うものに変えてしまうことになる。カメラや録音機なんて回していたら、余計にそうだろう。

そして、自分たちではどうしようもない形で、それらが変わることもある。その理不尽さと、毎日戦っているのかと言えば、たぶん日々を暮らす当事者の私たちは、べつに戦っている感じはしない。いつもどおり、朝起きてご飯を作って食べる。仕事に行って、帰ってご飯を作る。その繰り返し。

私たちの日常は意外と頑丈にできている。「理不尽さに踏みにじられた日常」や「新しくとって変わられた日常」は、案外見えてこない。だから、オフィスを縮小した、今年新しく何かを始めた、あるいは、なにもできなくなった人をメディアは必死に探してそれを映す。でも、なにも変わらない日常のほうがずっと多い。変わらないように、あるいは変わってもかまわないところは上手く受け流して、しなやかに強く頑張ってるから。私たちの日常はなにか変わったのだろうか。

『ひび割れた日常』のなかで、伊藤亜紗さんが「引き算の時間」という言葉を使っている。

3日後にプレゼンがあるから、今から準備する。来年はオリンピックがあるから、前もって仕事の調整をしておく。みたいに逆算して、物事を進める考え方だ。私たちはいま、未来があることを前提とした「引き算」ができない状態なのではないか、と。

でも、足し算でできている日常のほうが、私たちの暮らしにより根差したものであるような気がする。今日も明日も、同じようにお腹は空くし、ご飯を作って食べる。毎日、その日その日の暮らしを考えて生きている。

明日も、いい日でありますように。寒い日々が続くので、お体お気をつけてください。


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