正直ってなんぞや

「正直に言って欲しい」

この言葉は誰しも1度は言われたことがあると思う。正直って、なんだろうか。その時に思ったことを、なんの躊躇もなく口に出すことだろうか。それがどんなに辛辣な内容でも、言うべきことなのだろうか。大概そのような場面で必要とされる言葉は、普段思っていても言わない(言えない)ような重い内容が多い。あなたは、頭で考えずに反射的に、思ったことをそのまま口に出すことが出来ますか?

私は、出来ない。「私ってデブでブスだよね。ねぇ、どう思う?正直に言ってよ」なんて言われた時、「そうだね、吹き出物も酷いし、顔は大きくて鼻毛も出てるね。」とは、言えない。「そんな事ないよ、気にしすぎだよ」と答える。絶対に。その方がいいから。何がいいかって考えたら、その方が私自身にとって有利だから。相手の気持ちを思いやる、なんてことは建前で、その実、楽なのだ。相手を傷つけないということは、よっぽどのことがない限り、自分も傷つかない、相手によって傷つけられない。傷つくリスクが減る。波風を立てない方法は、私にとって最大の盾なのだ。でも、そうして自分を守ってばかりいたら、本当の気持ちが分からなくなってしまった。言うべき、と思うことはすぐに頭に浮かんでも、本当の気持ちが分からない。それはつまりどういう事かと言うと、会話をしていても、誰かと話しをした実感がないということだ。

人は分かり合うために言葉を使って話をする、それでも腹のうち全てが分かり合える訳じゃないから、死ぬまで話し合い続ける。それを愛し合うことだと誰かが言っていたような気もする。話している実感がないということは、誰とも愛し合っている実感がないということでもある。

それが今、とても辛い。私は、私の気持ちが分からない。誰かと話をしていても、心が通った気がしないので、ずっとずっと孤独なままなのである。じゃあ、正直に話せばいいじゃんと言われるかもしれないが、それも怖いのだ。

でも、書いていて思ったことだけれど、正直になるのは別に生身の人間に対して、だけではなくて良いのかもしれない、ということである。私は今、このブログに正直に書くことで、心が少し穏やかになっている。本当の思いを表現するのは、心の健康のためにとても有効なことかもしれない、ということに書きながら気づいたのである。これから心が疲れた時は、ノートに頼ろうと思う。生身の人間が駄目なら、文字と愛し合っていくのも良いのではないかと思った、今日この頃。


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