“奴ら”の正体
「ああ言う奴ら、見ていると本当にムカつきますよ」と、前職の同期は言った。目線の向こうには確かに“奴ら”がいた。「こっちは真面目にやってるのに、許せない」それを聞いた私は、深くうなづいた。
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以前、広告業界で働いていたときのこと。同期は30名ほどいたが、そのうち特に良く話す一人がいた。仮にKとする。Kとはお互い考えていることに共通点が多く、話しているとさしてディテールは説明していないのに、ある程度は分かり合えていたりする。喋っていて話が尽きないし、いつでも心のどこかに不思議な信頼感があった。
思考性や趣味、興味の対象が似ていることもあったが、Kとはもう一つ共通点を持っていた。それは同じ“奴ら”を所有し合っていたことだ。
私のいた会社はよく名の知れた企業の、子会社だった。有名企業および関連企業にありがちなことだが、そういった企業にはだいたい3種類の人間がいる。ひとつには有名大学出身で海外留学経験のある生え抜きのエリートで、どこの企業も熱心に欲しがるような完璧人材。二つ目には、関連企業の役員のお嬢さんお坊ちゃんで、愛想が良くて自信があって、そして生活のどこかしこに余裕が溢れているタイプ。そして三つ目には、有名大学を出てはいるが、特段優れているという訳でもなく、様々な努力で難関をくぐり抜けてきた人たち。つまり普通の人だ。私のその同期は、どちらかと言えば三番目のタイプだった。
そして子会社ともなると、良くできたエリートの総数が減り、相対的に二番目のタイプが目立つようになる。新卒なのに親に買ってもらった港区のマンションからタクシーで乗り付けて出社する人や、稼いだ給料は全額遊びに使ってしまうという人もいた。そこまでのレベルではなくても、実家に支援してもらっていたり、親元で庇護されて暮らしている人の割合は多かったと思う。
私もそのKも遠方の地方から出てきていたから、一人暮らしである。生活のすべての責任は、自分で負わなくてはならない。それは社会人にとって普通のことだし、自分で選んだ道だから文句を言うべきではない。
ただ、時々辛くなった。毎日夜の10時過ぎまで働いて電車に飛び乗り、自宅についたら飲むようにしてコンビニご飯を掻き込んで急いでお風呂に入ることが。夜中に洗濯機を回して、眠い目を擦りながら洗濯物を干して、すっかり冷え切った手先を握りしめながら薄い眠りを貪ることが。親元で安穏と暮らしながら、月3万納めているだけで自分は自立していると嘯く彼ら、働かなくても十分生きていける彼らと一緒にいると、それらの当たり前のことが、時々耐えがたくなってくる。
別に彼らと特段仲が悪かったり、話さないという訳ではない。ただ、普通に接していると心のうちに行きどころのない憤怒のようなものが溜まってくる。だから、私とKは彼らに対する憎しみで結びつくことができた。仄暗いところで手を取って連帯しあえる、仲間だった。
Kと二人で話し合っていると、実在の彼らを通り越して、憎むに相当する確固たる“奴ら”ができてくる。そして、自分たちはそんな奴らの本質に気づける、賢い人間であるという感じがした。奴らは裕福で恵まれていて、過剰な自信に満ちていて、絶対自分たちより苦労していない。縁故入社の可能性だってあり得るんじゃないの。
彼らは何でも持っているのだから、多少後ろ指さされたってしょうがないよね。どちらも口には出さないが、そんな風に示しあっていたと思う。特に舌鋒鋭く噂していたのはある役員の娘さんで、地方に別荘も持っていて、毎週末高級ホテルを泊まり歩き、洋服は必ずブランドものでコーディネイトしているような人だ。家族仲がいいのか、お父さんとお母さんにあれを買ってもらったという話を聞くことも多かった。私がその人の話をすると、Kは言ってくれた。「ああいう奴らは、絶対に苦労してないしズルいよね」わたしはKのその言葉が、嬉しかった。
さて、話は変わって不特定多数の人で集まる機会があったときのこと。自分の仕事の話をする時になって、前職の会社名を出したことがあった。すると、相手の反応が変わり始めた。
「あ、〇〇にいたんですか、すごいとこじゃないですか」
「親会社はそうかも知れませんけど、別に子会社はそこまででは」
「またまたー。給料だっていいんでしょ」
「いや、普通かそれ以下ですよ。多少残業代は出ますが、それは長時間労働前提だからで」などと言っては見たものの、全く取り合ってくれない。何を返しても謙遜か多少の嫌味で言っているということにされてしまう。彼は「俺はお前の正体がわかっているんだからな」とでもいうような、ニヤニヤ笑いを終始浮かべていた。
あとでわかったことだが、その人は現在求職中だったらしい。会の感想を自分のSNSにあげていたので、そこでそのことを知った。彼のアカウントを少し見てみると、明らかに私の悪口らしきことも書かれていた。投稿の中では、私は大学を卒業して苦労の一つもしてない温室育ちの気取った会社員ということになっていた。「苦労せずにいいところ入った、ああいう業界人ぶった奴ら見てると、どうにかしてやりたい」投稿には、似たようなパーソナリティーを持つと思わしきフォロワーからのいいねがたくさんついていた。
それを見たとき、私は憤った。何も知らないのに、なぜそんなことが言えるのだろう。言い返したい、と心の中で拳を固めたが、ふっと気づいた。自分も同じことをしていたんじゃないか。
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“奴ら”が時々、心の中に出現することがある。嫉妬していたり、孤独を感じていたり、劣等感に折れそうになっているときに、奴らはやってくる。自分が持っていないものを持っていて、自分より苦しんでいなくて、不当な利益を得ている“奴ら”が。実在の誰かの顔を借りてやって来ることもあるし、もっと抽象的な何かであったりする。ある時、奴らは途方もない金持ちで、ある時は凄まじいエリートかもしれないし、すごい美貌の持ち主や素晴らしい才覚のある人かもしれない。どこかの民族かもしれないし、企業にいる人物なのかもしれない。一定の年齢なのかもしれないし、特定の性別として感じられるかもしれない。
空想上の奴らは、私たちの心のうちにある区分を生み出す。つまり、“奴ら”と可哀想なこちら側の“私”だ。そこに超えられない壁がある。重要なことは、分断が起きることではない。“奴ら”を自分たちとは異なる存在だと認識してしまうこと、そして「不当な何かを得ているのだから、多少は攻撃してもいい」対象としてみなしてしまうことだ。だって、ずるいし自分より何かを得ているんだからさ。ちょっとぐらい攻撃してもいいでしょ?
悪口や噂話としてだけではなく、加害行動や迷惑行為の形で特定の対象にこうした攻撃心が表現されるケースもある。やってしまった側も、相当追い詰められていたのかもしれない。それでも、彼らの顔はどこか開き直って憮然としているものだ。加害者は自分たちのことを、被害者だと思っている。
私はきっと、その人に軽くぶたれたのだ。ただし、私も同じような理由で人をっぶったことがある。因果応報であると言いたいわけではない。私が誰かを“奴ら”と見なさないからといって、自分も“奴ら”だと見なされなくなるわけではないだろう。ただ、人のことをそうして一枚岩として見なすことで、人は絶対に何かを見落す。何もかもわかった気になっていても、必ず多面的に他人のことを見られなくなっている。見ていると思っているものは、ただの嫉妬心を反映した幻想、または物事の一面的な切り取りにすぎない。自分の報われなさを詰め込んで膨らませた、できの悪いおがくず人形だ。
孤独と自分を惨めに思う気持ちは、対岸の向こう側を光り輝かせてしまう。必要以上に。ぶつけ先のなかった怒りは、幻想の“奴ら”という的を得ることで、表現されやすくなる。そちらに向かいたいという、激しい衝動にかられることだってある。
それでも、いっときの感情に流されることはあっても、私たちは自分の中の幻想ではなく現実を見なくてはいけない。それは、誰かへの攻撃を避けるためではなく、自分を守るためだ。分断の壁を感じたら、それを「やり返し」で破壊しようとしてはいけない。その壁は、自分が傷ついているから引きこもって自分を守れというサインだ。怒りにひりつく自分の痛みに手を当て、悲しみに浸るべき時だ。
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会社を退職してから、風の噂で聞いた話がある。以前、Kと話していた役員の娘さんは養子で、実の両親ともにかなり若い時に急死していた。それ以来、いつ死んでも後悔しないように生きているのだという。
私はとんでもない勘違いをしていた。世の中のことをわかった気になっていた自分は、なんて愚かだったんだろう。ごめんね。
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