ゴジラ-1.0と鮫島伝次郎

2023年11月3日「ゴジラ-1.0」が全国で公開された。
私は公開初日(といっても、夕方から夜にかけての時間帯である)に見に行った。
この映画を鑑賞した感想を今から書いていく。


1.良かったところ

見どころはゴジラ

この映画の見どころは戦後2~3年くらい経った日本を蹂躙するゴジラだろう。
核実験で被爆したゴジラと戦闘することになるのだが、このシーンは見どころだ。口を開けながら顔を水面から出して追いかけてくるゴジラ。
助けに来た高雄がゴジラの青い光と放射熱戦によって撃沈する様、口に機雷を飲み込ませて爆発させる逃亡戦など、非常にハラハラドキドキさせるシーンだった。また、事前に機雷撤去のシーンと描写・段取りを丁寧に描くことで、機雷の威力やダメージを受けつつも再生能力を持つゴジラといった描写で恐ろしさを描いていたと思う。

そして、この映画の最も白眉であると感じたシーンは、銀座襲撃シーンであろう。逃げ惑う人々を大きく太い足で勢いよく踏みつけるゴジラ、ゴジラに咥えられた電車の中からゴジラを見せる画、放射熱線を吐くときには尻尾がロボットアニメの必殺技モーションのような動きをするなど、ゴジラの全てが脅威的であり、動きの一つ一つが必殺技なのだなと思った。

2.課題点

本当に反戦といえるのか

この映画においては体制批判があったのだが、そのシーンのせいで反戦の被害者性が強調されるばかりで加害者性、つまり戦争そのものへの後悔や苦悩は描かれなかったと思う。
私が何故、そう感じたのかを以下に記す。

戦災と天災との混同

主人公は特攻から逃れるために機材の故障を虚偽申告し、ある夜偶然現れた呉爾羅に整備兵が襲われてしまい、自身は何もできずに生き残ってしまったことから、PTSDや戦争のトラウマを抱えてしまった。

だが、呉爾羅が偶然襲ってきたことにより、主人公のトラウマは戦災ではなく天災になってしまったと私は思った。

まず、呉爾羅は被爆せずに(襲撃時は1945年であるから)襲ってきた。襲った理由は偶然であり理由と呼べるものはない。
この理由が、例えば日本軍が飛行場を作るために呉爾羅の住処を切り開いたため、怒れる呉爾羅が日本兵を襲いだした、だったら戦争のせいで人が死んだといえる。
だが、理由もなく人間を凌駕する存在が襲ったのならば、それは戦災(戦争のせいで人が死んだ)ではなく天災だろう。

8月15日は終戦の記念日と普通言われていますね。でもこれは終戦の日じゃないです。『敗戦の日』です。この日、1945年8月15日に玉音放送が流れて、敗戦が国民的事実として確定したわけですよね。日本の戦後の歴史の中で何故かこの日は、「敗戦の日」じゃなくて「終戦の日」だよねっていう、ある種の共同主観性と言いましょうか、常識というものがどういう訳か定着してしまいました。

  敗れた日、つまり負けっていうのを、すり替えた訳ですね。負けたんじゃなくて終ったんだって事にすると、何か自然現象みたいな感じがするわけです。これをもっと言えば、謂わば戦争の天災化と言ってもいいと思います。もちろん戦争は人が行うものなんですが、これが敗戦が終戦というふうに呼びかえられちゃうことによって、戦争の人為性というものが削り取られてしまうというか見えなくなってしまう。みんな国民酷い目に遭った。家が焼かれた、身内が死んだ。だけどそれは、結局のところ天災にあった様なもんだと。もの凄い台風とか、とんでもない天変地異にあって不幸な目に遭ったと。いくら不幸でも天災だったら仕方が無いと諦めるしかないわけです。

https://www.ne.jp/asahi/institute/association/doc/doc-parts/11/115_01.html
地域・アソシエーション研究所 115号の印刷データ PDF

白井聡氏がいうように敗戦を終戦と言い換える行為「敗戦の否認」が何をもたらすかといえば、責任の曖昧化、戦争の天災化である。
戦争は人が始める行為であり、それによって災禍が生じるなら、責任は始めた者、支持した者に責任がある。それを偶然天変地異が襲ったようにすり替えてしまう行為が果たして反戦的であると言えるのか。

反省点のすり替え

また、この映画では戦時中の軍部への批判があった。
主な批判をあげると

  • 情報の改ざん、隠蔽

  • 兵站や人命の軽視

などである。

復員兵たちはゴジラが来ると、今度こそは誰の犠牲も出さずにゴジラを倒すぞと離脱者はいながらも団結するのだった。

ここで気になったのは、上記の点が無ければ日本兵が勝てたと読み取りかねないことだ。先の大戦の罪はアジア解放のためという御託を掲げて、アジア各地を搾取・弾圧したことだ(東南アジアのゴムを搾取したり、独立運動を弾圧したりした)。それらを無視して、日本兵の負担を語ってゴジラという危機を前に一致団結するのは反戦的といえるのか。

チューニングの提案

ここでチューニングの提案をさせていただこう。

  1. 呉爾羅が目を覚ましたのは偶然ではなくて、日本軍が自然を切り開いたからであり、巨大化は米軍の核実験

  2. 主人公のトラウマは、捕虜を虐待した自分が捕虜になった時に連合国軍から人間的な扱いを受けた罪悪感

  3. 主人公パーティのうち水島だけが原爆症に苦しみ、博士は軍部の開発が呉爾羅が目を覚ました原因だと苦悩する

  4. 戦時中、呉爾羅が目を覚ましたけじめをつけるべく戦う決意をする

であれば、反戦(加害者性と被害者性)、人間ドラマ、生きるための戦いが成立すると思う。

まとめ

私がゴジラ-1.0を反戦ではないと考えた根拠をあげたが、そう思ったきっかけはスタッフロールの一部に「古関裕而」の名前を見かけたからである。
古関裕而は戦時中、軍歌や戦争アニメーションの曲を多く作った。だが、戦後は鎮魂として「長崎の鐘」を作った存在である。
彼だけがそうだっただけでなく、「かわいそうなぞう」の作者も「長崎の平和記念像」を作った人物も、戦前・戦中は戦意高揚プロパガンダを作ったくせに、戦後は一転して平和主義・民主主義を唱えるようになったのである。

この映画を反戦と評するのは危険な兆候である。
戦争という環境下では誰しもが加害者になる、加害者にならないために戦争そのものを根絶するべきなのに、我が国では被害者意識ばかりが先行して天皇主義者は一夜にして平和主義・民主主義者に転向した。
だからこそ、私ははっきり言おう。
この映画に感動してしまった者は、私含めて鮫島伝次郎の資質を持っているのだ。

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