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夢の引越し便 #4-②

その声はまるで氷の魔女の吐息を全身に浴びたかのような寒々しい震えと怯えを感じさせるものだった。
電話口の先にはカチカチと歯の鳴る音がうっすらと聞こえた。寒い場所にいるのだろうか? まだ秋だ。そんなはずはないと思いながら、僕は声すら出せなかった。少し間が空いて今度は遥か遠い場所にいるような距離感でヒトミは口を開いた。

「元気でしたか?」

「それなりにはね。」

4年経ってようやく出てきた僕の言葉があまりに凡庸でうんざりした。

「生きててくれて良かった。」

「え?」

「もう死んでるかと思ったの。あなたのお母さんに連絡してあなたの電話番号を聞いて何度もかけたのよ。」

「いつ?」

「覚えていない。何年も前。」

「こっちへ来てから番号は変わっていないよ。」

「うん。あなたが手紙に書いてくれた番号とお母さんから聞いた番号が違ってた。」

「なるほど。」

「会うな、ということだったのかな?」

「うちの母親はそんなイタズラしないよ。」

「ううん、そうじゃないよ。」

僕は電話機の側に置いてあったヒトミからの手紙を手に取り、ヒトミの文字を見ながらゆっくり深呼吸してから息を止め、息を呑み、ベッドに寝転んだ。

「ヒトミさん、いったい何を忘れてしまったんだい?」

「待って。まだあなたのリズムに慣れていないの。」

「リズム。俺のリズム。」
僕は黙り込んだ。ヒトミもすぐに何かを話し始めるような気配を持っていなかった。

チチチチ、カチカチッ。

確かにヒトミは震えているようだった。僕は言葉を探した。しかしどんなに見回しても適切な言葉は見つからなかった。すぐに言葉を探すことを諦め、僕のリズムなんて存在するのかを考えた。今まで考えたことが無かった。どんなリズムなのだろう。僕はずっと誰かのリズムに合わせて来たつもりなのに。

「・・・。手紙に書いた通りなの。何か大切なことを忘れてしまったの。」

「うん。読んだよ。」

「それが何か、本当に知りたいの。」

「知ってどうなるんだろう。何かが変わるとは思えない。」

「ううん。変わるとか変わらないではないの。それは死ぬまで覚えてなきゃならないことだと感じるの。自分の名前のように。自宅の住所のように。」

「うん。でもよく考えてごらん。君が忘れたことを思い出すには、俺は君と出会ったときから離れるまでの間で、記憶がある限りの君とのことを全て思い返して説明しないといけないんだよ?それも極めて客観的におこなう『確かめ算』だよ。さらには君の意思を無視した不完全な確かめ算じゃないか。それは俺にとっても君にとっても酷く苦痛なことだと思う。すでに俺の記憶も欠けているし、俺なりの解釈で過去に妄想を加えてしまっているよ。絶妙に味付けされている。俺の都合の良いように。」

「それでもいいの。受け入れる。だって、このままでは何も前に進めない袋小路なのよ。」

「申し訳ないけれど俺はそんなことやりたくないから。君は君の力で、君の都合が良いように穴埋め作業をしたらいいと思うよ。」

「いやなの。それは許せないの。あなたと認識を一致させたいのよ。」

「それにどんな意味があるんだい?まったく分からないよ。」

ヒトミはまた黙り込んだ。息遣いも震えも存在感も消えていた。通話が切れたような無がそこに存在した。

「会いたい。そして私はどうやら、あなたと寝なくてはならないようなの。」

ヒトミは音も光も、ひょっとすると空気すらない場所から救いを乞うような声で囁いた。
僕の張り詰めていた気持ちがさらに増した。天井がいつもより低いような錯覚をした。体全体が痺れてくる。僕は怒りでも嫌悪でも呆れでもなく、恐らく「悲痛」という部類の感情で溢れだした。

「それで君が救われるのかい?今の言い方、俺には神だか誰かに突き動かされて、やむを得ず寝たいと言っているような被害者の声にしか聞こえないんだけど。それは侮辱とも呼べるほど相手に失礼で、今の彼に対してもひどい裏切りになるんじゃないのかい?」

「わかってる。言葉も選んでいるつもり。でも私が辿り着く結論は何度考えてもこれなの。ねぇ、もう4年も同じことを考えている私の気持ちは少しは伝わった?こんな結論にしたくないのよ。私にもあなたにもそれが不幸なことだとわかっているの。それでもこれを言わなくてはいけないと言う私がいるの。」

「何かしてあげたいと手紙をもらった時は思ったよ。でも今はそんな風に帰結していた君に対してよくわからない感情を抱いているよ。俺が君に言えるのは、忘れた記憶は忘れるべくして失ったものだと割り切ってしまえば、何ら不安に憑りつかれることはないだろうということと、俺を巻き込むならもう少し違う方法で君が望むことを叶えるようなアプローチをしたほうが良いよということだね。」

「うん。あなたが言っていることはいつも正しい。わかってる。でも世の中には間違っていると分かっていても伝えなくてはいけなかったり、やらなくてはいけないことがあったりするのよ。」

僕はなぜか泣いていた。
自分の無力さを感じての悔しさなのか、どうにもならない悲しみなのか、色々な感情が入り混じって、体から押し出されるように涙が溢れてきた。

「泣いているの?」

「よくわからないよ。4年も経って、離れていってしまった人に対して何をするべきか、何を取り戻すべきか、何を共有するべきかなんて。」

「あなたの気持ちは私には分からない。私の気持ちもあなたに全て理解してもらおうとは思わない。それは絶対に無理だから。でも少なくともポッカリと空いてしまった穴をお互いに埋めるべきだと思うの。」

しばらく僕とヒトミは沈黙を作った。
時間は急かすこともなく、僕の結論を待ってくれていた。
ヒトミも同様に僕の判断を待っているように感じた。

「君が望むなら、会って話をしよう。記憶を共有するよ。細かいディテールは気にしないで欲しい。間違っていると感じたらそう言ってほしい。」

「うん。ありがとう。本当にありがとう。」

僕は落ち着かせるためにタバコに火をつけた。
鼻が詰まっていて味がせず、揺らぐ煙を眺めるだけにした。

「いつにしようか?俺はいつでもいいよ。」

「できればあの図書館で会いたいの。あれから行っていないのだけれど、あそこにあなたと行ったら思い出せる気がするの。」

「次の日曜なら帰れるよ。」

「うん。合わせる。」

僕はヒトミと会う時間を取り付けて電話を切った。
訪れた沈黙はさっきの沈黙とは違い、全く温度を持たないものだった。
僕はボブ・ディランのLike a rolling stoneを聞き、エリック・クラプトンのLaylaを聞き、オアシスのWhateverを聞いて、エンディングの叫び声でようやく現実を取り戻した。


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