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「かわいい」と言われて喜ばない女性はいない

以前、知り合いの女性に、

「綺麗や美人と言われて嫌な気持ちになる女性はいる。だけど、かわいいと言われて喜ばない女性はいない」

と言われたことがある。

綺麗や美人は外見だけを褒めており、こじらせ女子だと「どうせ私なんて…」になって話がこじれていく。性格がひん曲がってる人は「内面はダメってことね!」となる。フェミニストだと「女性を見た目で評価する差別主義者!」と罵られる。

けれど「かわいい」だったら、内面も外見も含めた総合的な評価になる。

だから「かわいいと言われて喜ばない女性はいない」ということだった。

映画女優における「美人」

綺麗や美人ということでいうと、映画女優においては、昔は、誰もが認める美人、または正統派と呼べるような美人が多かったという印象を持っている。

グレタ・ガルボ、オードリー・ヘプバーン、グレース・ケリー、イングリッド・バーグマン、エリザベス・テイラーなど、好みは人それぞれあるにせよ、彼女たちがそれぞれクレオパトラを演じても、誰も文句を言うことがなさそうな女優が多い。

現在だと、誰もが認める美人というよりも、個性的とか生活感があるかとか庶民的とか、そういう美人とは異なる魅力の人が女優として多く活躍しているように感じる。

これは、画一化された「美しさ」ということより、多様な個性、多様な嗜好を認めるということを感じさせ、そのため、多様性の社会ということの反映を思う。

しかし同時に、容姿で人を評価することを否定するルッキズムという言葉を、ここ数年はチラホラ耳にするようになった。

ルッキズムについて

ルッキズムについては、個人的には、人種差別や性差別とは異なり、興味・関心を持つことが少ない。

それは、人種差別や性差別が、是正するべき事象が明らかであり、自分の周りであっても実感することが多いためだが、ルッキズムについては、そのようなことがないためである。

ルッキズムが問題視される場合、「容姿を気にし過ぎるあまり、摂食障害やうつ病になる」とされることがある。しかし、容姿を気にするのは思春期であれば多くの人が経験することであろうし、それが過度になる人は精神疾患であり、適切な治療を受けるべきで、容姿による差別や格差とは別問題と感じる。

また、「就職試験や評価査定の際に容姿が良い人が有利」ということも言及される。しかし、自分の周りでいえば就職や評価査定において、容姿が評価項目になることはないし、また「この人は容姿がいいから給料を上げよう」などということは見たことも聞いたこともない。

就職や評価査定は、人が人を評価するのだから、評価者側はそうと思っていなくても、容姿がいい人は高評価になり、容姿がよくない人は不利になっている、ということがあるのかもしれない。

それを多くの人が感じるのであれば、対面方式の就職試験を止めたり、履歴書の顔写真を止めたり、評価査定であれば容姿を評価項目から除外したAI判定を導入するなどすればいい。

「人を見た目で評価するな」は子供の頃から教えられていることで、意図せず容姿のいい人を高評価にしていることが多くあるなら、それは元々悪意のある話ではなく、仕組みを変えればいいだけの話で、大した問題と感じない。

そのため、ルッキズムという問題を実感として感じることができない。

容姿は一つの才能

容姿は、足が速いとか背が高いのと同様、才能の一つであろうし、それを伸ばすも伸ばさないも、また、それを活かすも活かさないも人それぞれと感じる。

また現在は、「誰かを傷つける発言」が非難される風潮にあるが、冒頭の女性に言わせると「かわいい」は例外なのかもしれないが、そもそも誰も傷つけない発言なんてない。

「それは誰かを傷つける発言だ!」と非難すれば、非難された当人は傷つくことになる。

容姿という才能が優れている人を容姿について褒めることはあるだろうし、容姿という才能がない人に、容姿以外での努力を薦めた結果、傷つけてしまうということもあるだろうと思う。

しかし、理不尽に人を虐げる差別と、意見を述べた結果、人を傷つけてしまうというのは異なる。それを同一視するのは「何も発言するな」と同義に近く、人の人格や個性を否定することであり、危険と感じる。

ミスコンとルッキズム

東大名誉教授の上野千鶴子がルッキズムに言及した際、「ブスと言うのも美人と言うのもダメ、だけどイケメンと言うのは許される」というジョークみたいな発言をしていたり、先日は、東京女子大が「ルッキズムを助長させる」ことを理由の一つに、ミスコン廃止を宣言していた。

こういうのを見ると、”ルッキズムに対しての発言は浅はか”という印象を受けてしまう。

ルッキズムの問題は、容姿を評価要素にするべきでない時に、容姿を評価要素にすることと、容姿だけで評価するべきでない時に、容姿を単一の要素として評価することだと思っている。

容姿は関係ない就職試験で容姿が評価項目になっていれば問題だが、モデルの採用試験において、(モデルはウォーキング技術や表現力などの技術も必要と思うが、それらも容姿の一つとするなら)モデルの容姿を唯一の評価項目とすることは問題と思わない。

そのためミスコン廃止にしても、ただ廃止するという安易な方法ではなく、ミスコンが「美人」を決めるコンテストなのであれば、「ミスコンは容姿を単一の評価項目にするコンテスト」と高らかに宣言すればいいだけの話と感じる。足の速さを決める徒競走と同じです、と。

そうではなく、冒頭の女性の言葉を信じるならば、ミスコンは、容姿、学業、課外活動、周囲の評判などを評価項目にした「総合的な魅力ある”かわいい女性”を決めるコンテスト」と宣言した方が、東京女子大というのは、浅はかとは異なり、思慮深い大学なのだなと印象を持っただろうと思う。

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