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『エガちゃんねる』が素晴らしい

知人から強く勧められて、YouTubeで江頭2:50がやっている『エガちゃんねる』を観た。

知人から「絶対面白いから!」と強力にプッシュされたのは、マクドナルドの食レポを江頭2:50が行うという動画だったが、これが、素晴らしかった。

『エガちゃんねる』のオリジナリティ

その動画は以下になる。

抜群に面白く、声を出して笑ってしまった。そしてやはり、素晴らしいと思った。

この動画では、マクドナルドの商品を食べて、江頭2:50が正直な感想を述べていく。正直な感想なので「うまい」もあるが、「まずい」を連発する。

マクドナルドという大企業の商品を「まずい」というのは、スポンサーがいるテレビであれば当然考えられないことで、だから実に新鮮だった。脚本のない江頭2:50の正直な感想を感じた。

また、江頭2:50が行う食レポの一つ一つが適切で納得感があり、江頭2:50はこんなにもトークが出来る人だったんだ、という驚きがあった。

「うまい」「まずい」を正直に言っているので、それら食レポも真実味がある。江頭2:50の感想なので、自分の感想と異なるとしても、江頭2:50の正直な感想ということは強く伝わる。

この動画は、江頭2:50が食べて、感じて、言語化し、それを表現している。つまり、江頭2:50が自分の頭で考えている。

そのため、この動画は江頭2:50でなければ出来ないし、江頭2:50でなければならない。江頭2:50のオリジナルだからである。

だから、素晴らしいと思った。

『中田敦彦のYouTube大学』は中田敦彦である必要がない

『エガちゃんねる』と同様、人気のYouTubeチャンネルで『中田敦彦のYouTube大学』がある。

以前、ネットで情報を探していた際、『中田敦彦のYouTube大学』が出てきて動画を視聴したことがあるが「ひどい動画だな」と思った。

そしてこの『中田敦彦のYouTube大学』が大人気というところに、現代の象徴性を感じた。

『中田敦彦のYouTube大学』全ての動画を見たわけではないので、『中田敦彦のYouTube大学』自体を否定できないが、少なくとも自分が見た動画の内容は、よくあるまとめサイト的な内容だった。

本に書いてある内容をなぞって説明するだけで、独自の解釈があるわけでもない。また尺は30分程度あり、要約ともいえない。

つまり、だらだらと本の説明をしている動画だった。

そのため『エガちゃんねる』とは逆に、『中田敦彦のYouTube大学』は中田敦彦である必要を感じない動画だった。オリジナリティがないからである。もっと面白く本を紹介できる芸人は、明石家さんまだとか他にもいるだろうと思った。

『中田敦彦のYouTube大学』は、本を読んでいないけれど、その本の知識・情報は欲しい、かといって要点だけの要約でもない、”本を読んだ気分にさせる”というニーズを満たすもので、そういうニーズをついた点で、中田敦彦のビジネスセンスは褒められるべきと思う。

しかし、要点を見て「本を読んでみよう」という気持ちにつなげる要約よりも、「本は読まなくていいや」となりそうな『中田敦彦のYouTube大学』は、本の著者へのリスペクトに欠けると感じるし、要約だけを集めたサイトやアプリ以上に悪質とすら思った。

また、”本を読んだ気分にさせる”というニーズについては、懐疑的にならざるを得ない。

効率性の弊害

膨大な情報で溢れかえる現代だと、それら情報をいかに効率よく取捨選択するかが必要になる。

だから、本の要約だけを集めたサイトやアプリ、また、『中田敦彦のYouTube大学』のような本の説明が一定の需要を集めるのだろう。

しかし、要約や本の説明というのは、本当の知識にはなり得ない。それは、スポーツでいえば、ハイライト動画を見るようなものだからである。

例えばサッカーを学ぼうとして、ゴールシーンを集めたハイライト動画だけを見ていたのでは、パスやドリブルの技術を学ぶことは出来ない。さらには、サッカーのルールすら学ぶことが出来ない。

「芸術は細部に宿る」もしくは「木を見て森を見ず」いう言葉があるが、効率性だけを重視して、要約や本の説明で、知ったような気になるというのは、「木を見て森を見ず」であるし「芸術は細部に宿る」を知らずに過ごすということだろう。

北朝鮮には、ピラミッド風のヘンテコな形をした”世界で最も高い空きビル”として知られる柳京ホテルがあるが、要約や本の説明を見るというのは、柳京ホテルみたいな人間になるということと感じる。

見た目は派手だけれど、中身は空っぽである。

オリジナリティの価値

ウェブを中心として膨大な量のコンテンツがある中で、良質なコンテンツといわれる物がある。

良質なコンテンツとは何かを考えると、役立つ情報とかためになる情報とか、そういうことではなく、代替性がないということだと思っている。

つまり、代わりが効かない。オリジナリティである。

意図的な虚偽の情報や悪意ある情報でない限り、それがどんなにくだらないことであっても、どうでもいいことであっても、そこにオリジナリティがあれば、それは立派なコンテンツである。

代替性が効くということは、オリジナルがあるということであり、オリジナルをコピー&エディットしているわけで、だからそれは疑似コンテンツといえる。

疑似コンテンツを大量生産し、取得させようとするのは、柳京ホテル型人間を大量生産するくらいしか効果がないと感じる。

だから、中身が空っぽになるだけの疑似コンテンツを取得することは、効率的と見せかけて、実は最も非効率的と思っている。

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