未だに自分がなんなのかわからなくて、みっともなく自分探しをしている。

どこかに潜んでいるのは、寝て起きて食事をし歯を磨き、排せつするという繰り返しだけが自分の人生ではないと思っていること。
これをここに文字にすると、背中が重くなる。格好悪い。

こんなに現実を見れずに、逃げ回っている自分が恥ずかしい。
そう感じながら、目を塞ぎ、なんとか明るいものが見えないかと指の隙間から覗いてみても、現実を受け止めていないのだから、どれも2次元のもので手に取ることも消し去ることもできない。


だったら、こんなどうしようもないつまらない人として、クソがつくバカを諦めて、胸張って日々を過ごすのがいいのではないかと思うけれど、、それも意味のないプライドが邪魔をしてできないでいる。そのプライドこそがクソだというのに。

精神論や どうあるべきかを、自分を使い他者へ知らしめられる人達がいる。
そう在れるために、痛みや恐怖を乗り越え実験し続け頑張りぬいた人々の言葉は素晴らしい。
手本にしてやってみようとしてみたら、「だめだ。今の私はそれが続かない。」「これは怖すぎてできない。」みたいなことが往々にしてあって、それでまた出来ない自分がみっともないのと悔しさと、また今回も自分はこの池から出ることはできないのかという悲しみからくる苛立ちの持って行き場がなくなると、自分に怒りがわき始めたり、自分を責め始める。

誰も自分で自分を責めたくなんかない。痛みの反芻は辛い。
なのにやってしまうのには理由があるのだけど、今度にしよう。

何が言いたかったかというと、教えや精神論を説くとても素晴らしい人たちというのは、もう自分とは別格の生命体、もし生物を箱で区分けしたなら最初から入っている箱が違う、そんな分離感を感じてしまうということ。
きっとこれも私の逃げ腰が分離感を持たせてどうにもイヤなことから逃げようとしてるのだろう。

私はどこまでも逃げ腰なのである。
このみっともない浮ついた自分を今世で直したいと思うけれど、もうどうにもならないのかもしれない気がする。

ああ、1つ続けていることがある。
自分を責め始めたら自分でSTOPをかけること。

yuriyumiko

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