仏のパワーためしすぎ

友人の3回忌法要。いまにも大きな雫がこぼれおちてきそうな曇天の中、お骨がおさめられている多摩霊園の納骨堂にみんなで訪ねていく。地下の納骨堂におりていく階段に到達したあたりで、ドカーン、バリバリバリバリ、と特大の雷が落ちはじめて、みんな飛び上がって驚く。21歳の息子さんも含めてみんなで「父、きてますね」「ここまで存在をアピールしてくるとは、さすが寂しがりや」「ゆっくりしていけよ、って言ってますね」「仏になっていろいろできるようになって、パワーためしすぎだね」と笑った。世界のいろんなものごとが、友人の存在を伝えてくる。

法要のあとの偲ぶ会で、スピーチをする時間をいただいた。喋るのは苦手なので原稿を書いて読んだ。以下転載。


荒濱さんを偲ぶ会で少しお話をする時間をいただけるということで、ふと思い出して、荒濱さんに激推しされてたのにまだ読み切ってない本を引っ張り出して、続きを読みはじめている。団鬼六の「不貞の季節」。コロナの時に流行った、SNSでおすすめ本を紹介するやつでも荒濱さんはこれを挙げていた。家にあるはずなんだけど見つからないんだよね、伊藤ちゃん、持ってたら表紙の写真送ってくれない?と頼まれたので撮って送った。荒濱さんはありがとうありがとうと喜んでいたが、しばらくしたら自分の本見つかったわーありがとね伊藤ちゃん!と自分で撮った写真でSNSはアップしていて、わたしが撮ったやつは何かが気に入らなかったんだと思うけど、荒濱さんが撮った写真も別にたいしたことなくて、なんなんだよってちょっとむかついた。むかついた記憶とともに一応紹介文もおぼえてて、「ただのド変態小説みたいですが、滑稽でもの哀しい人間の性(さが)を見事に描き切っている」と熱く語っていて、荒濱さんらしいな、と思った。

荒濱さんとはわたしが26とか27とかのころに出会った。わたしが勤めていた会社に、荒濱さんが高橋学さんに連れられ、フリーランスのライターとしてやってきた。仕事をいっしょにしたことはないのだが、たまたまなにかの飲み会でいっしょになって、伊藤ちゃんおもしろいね!と言ってくれて、そのあたりから仲間といっしょに遊びにいくようになった。その後、わたしが子どもを産んで育てているあいだは外出もままならなぶつきあいは途切れていたが、10年くらい経った頃、流行りはじめたFacebookでふたたびつながって、みうらじゅんの個展 展見に行かない?つって渋谷パルコで再会した。そこからはまた、たくさん遊んで、たくさんの話をした。たまにはまじめな話もしたが、たいていはほんとうにくだらない話ばかり、それはここにいる皆さんもよくご存知のことと思う。何十年も過ごしているともうだいたいネタも尽きてくるんだけど、何回聞いても面白いので、小さい子が親に、あの話して、ってねだるみたいな気分で、何回も聞いた話をしてもらってまた笑った。わたしは長州力にインタビューしたら何言ってるかぜんぜんわからなかった話が好きです。

今日は3回忌だけど、荒濱さんとお別れした感覚はまだもてなくて、毎回飲み会呼んでるのに毎回来ないよな荒濱さん、と思っている。でも仲間と集まって荒濱さんの話をするとき、寂しがり屋の荒濱さんはいつもすぐそばまで来ている感じがする。だからこれからも、わたしたちはときどき集まって荒濱さんの話をするだろう。

そんなことを考えながら団鬼六の続きを読みはじめたら、なんかちょうどいいことばが出てきた。こういうとき、荒濱さんに呼ばれたなって感じがする。伊藤ちゃん、ここちゃんと読んでよ、すげえいいからさ、とかいって。

団鬼六が性的倒錯者を集めたサロンをつくろうと思い立って、会員募集のパンフレットの冒頭に入れた滝沢馬琴の言葉だそうです。

─万世の功名も生前一杯の酒にはしかず。もし、この時に楽しまずば、老いて命終わる日、悔やむともいかで及ぶべき─

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