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2020.3.8 何度でも電車を逃し、歩く。

終電を乗り過ごした夜一時、知らない駅のシャッターがいつ降りるかわからないときは、北口に降りるか南口に降りるかの判断ミスさえ命取りだ。間違えてはいけない。タクシー代なんてない。

どこだここ。

目視した情報と、地図アプリによると、恐らく東京のベッドタウンらしく、チェーン居酒屋とコンビニ以外の光はない。まだ明るそうな北口に下る階段を進む。スマホの充電は2%しかない。

長い夜になった。ファミマのイートインでスマホを充電できたことが何よりの幸運で、イートインが閉まる2時に、歩くことを決めた。
終電を逃して歩くことなんて大学生活で繰り返してきたことだ、何も心配ない。が、寒い。念のため「自分がいる駅名 終電 ない」で調べてみた。

⑴最後まで飲み明かす ⑵カラオケ ⑶ホテルに泊まる ⑷歩いて帰る
(最後に)どれがおススメかって?筆者がおススメするのは、終電を逃したことでせっかくの日曜日なのに損した気分になるので、何よりも終電で帰ることをおススメします!

最悪の気持ちになるだけだった。検索する僕も僕だが、書く側も最低な奴だ。何が”筆者”だ。広告収入目当てか知らないが「調べました」系記事はどうにかならないものか。
宇野常寛さんの『遅いインターネット』を思い出す。時間をかけて読んだが、ピンと来るような来ないような、でも求める理想ではあるような気がした。
2014年に出版された『楽器と武器だけが人を殺すことができる』内の「『絆』なんか、要らない」で、2020年始動予定の計画を構想中だと言及していたのが、「遅いインターネット」なんだろう。
『楽器と武器~』は宇野さんが<ダ・ヴィンチ>に連載した評論集で、『山崎貴版ドラえもん』『恋チュン』『風立ちぬ』など、評論対象はとっつきやすい作品が多い。なかでも僕が惹かれたのは、著書名にもなったタイトルの回だ。アニメ脚本家としてデビューした井上敏樹による小説『海の底のピアノ』について、彼が過去に手掛けた『仮面ライダーアギト』と『仮面ライダー555(ファイズ)』の描いた世界を材料にさらっていく文章で、「食べる」という行為に含まれた意味は、ライダーの資質や葛藤と対峙していると指摘する。

「食べる」というモチーフは、井上敏樹の作品において世界への肯定の象徴であると同時に、執着をもたないことの象徴でもあった。「食べる」という行為は一瞬で快楽をもたらし、そして一瞬で終わる。要するに、井上敏樹にとって「食べる」=世界を肯定することと「夢=呪い」をもたないことは統合で結ばれているのだ。p.208

「夢=呪い」の部分は『555』における敵(オルフェノク)と『アギト』の超能力者をつなぐ思考だ。
僕にとって初めての仮面ライダーは『555』だった。「あの作品って『X-MEN』じゃん!」と大学に入ってからも会話に出てくるくらい強烈な印象を残す作品だったけど、主人公が猫舌(=「食べる」を楽しめない存在)であることが、作品の主題を構成するうえで不可欠な設定であったことを、長い時間を超えて納得する快感があった。目から鱗が落ちた。

誰がどの媒体で語っていたのかを思い出せないのだけど、何かを表現するときには「鱗」を目にはめることが大切であるらしい。作り手が鱗を通して視認した世界を、僕たちは消費し、それを評論家がはがすことによって、作品と社会が接続される様子に気付けるのか。頭の隅に引っかかっていた言葉にも納得できた。

しかし、『楽器と武器~』を読みながら寝落ちしたせいで僕は終電を乗り過ごし、寒い夜を歩き通したのだから、二度と評論を読みながら終電には乗らないだろう。

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『問わず語りの神田伯山』、『オードリーのオールナイトニッポン』を聴きながら、畑と住宅地が交互する暗い道を歩き続け(アニメ『鬼滅の刃』を見始めたのでなんだか夜道が怖かった、鱗と言えば鱗滝先生だ。)駐車場がだだっ広いコンビニの明かりに助けられ、3時半に大泉学園前駅にたどり着いた。高校時代の思い出のバンド、0.8秒と衝撃。の曲名でしか知らなかった場所。「大泉学園北口の僕と松本0時」は、普段は打ち込みでバキバキの音を作る塔山忠臣が、毎回EPに1曲だけいれる弾き語りをベースに作ったであろうエモめの曲。懐かしさでじんわりしたけど、その先を歩く体力はなく、コンビニで『銀の匙』最終巻を立ち読みし、追い出され、閉鎖した地下商店街の入り口に座って始発を待った。朝4時。

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二日前、アララに投稿した記事が過去最高に読まれていて、深夜にもかかわらずツイッターとnoteの通知が定期的に届いている。
1年間書き続けたなかで、今までにやらなかったタイプの記事ではあるけど、こんなにも読まれるのかと驚いている。
お笑い・ラジオについて書いたことと、それがただの賛美ではなく自分なりの疑問を含んでいることが、もしかしたら意図していない捉えられかたをされたり、悪い方向で広がっていくのではないかと思う気持ちも途中から湧いてきた。
もともと僕が書きたかったのは「空気階段のラジオが面白かったこと」で、そこにバナナマンのエピソードを連想し、勝手な筋で自分が思うことを重ねただけだから、挑発的な部分は抑えるよう意識したつもりだ。今のところ、誰かの悪意をあおるようなことにはなっていと安心しているけど、「見出しからして、どうせ批判記事だろうと読むのを躊躇した」と書く人もいた。引用して何かの言葉を添える人たちもたくさんいた。
記事のツイートにリアクションするたくさんのアカウントを見ることでそれを確認できたこと自体、初めての経験だった。勉強になった。

お笑いについて書くと、一定数の好事家たちに一過言添えられる可能性があるのは分かっていたけど、今のところ一番こたえているのは「神田伯山の言葉使うのずるい」というツイートだ。その通りなのだ。書いたときも引っかかっていたところをドンピシャで言い当てられてへこんでいる。
でも、沢山の人に読まれること自体が初体験だったので、今後アララで書いていくうえで意識できるところが増えた気がする。

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どこに行っても松屋とファミマはある。



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