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今日は素敵な記念日だったらしい。
なぜ6月2日なのだろうと気になって調べたら、そう定めたのび太の思考が素晴らし過ぎて最高だった。

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6月に国民の祝日がないことを6月1日にぼやくのび太。ドラえもんが差し出した「日本標準カレンダー」は、シールを貼った日が休みになるひみつ道具だった。そう分かると、
のび太「やるか!」
ドラ「やろう!」
のび太「あした休み。」
ペース配分度外視の欲望どストレート。
こんな発想大人には無理。

日本人全員が休みになったせいで食べ物も食べられない警察消防も動かない、あまりに不便だからカレンダーからシールを剥がすというオチをSFの範疇と笑えない状況になっているのだから、想像力というのはすごい。

ラーメンズを見ている。
「条例」「風と桶に関する幾つかの考察」「新噺」が面白かった。マイムが高度すぎてたまらない。
久しぶりに小林健太郎のサイトに行くと、カジャラの公演が中止となり、noteでラジオコントを発表していた。8時間前に。最近はタイムリーな偶然が続く。

駅からの帰り道、普段使う大通りではない道を歩くと、飲食店で食事したり、飲み屋で腰掛けてる人がたくさんいた。狭いカウンターの端と端に座ってマスターと話している景色が三軒続いた。
仄暗い通りに光るタバコ屋を除くとそこは茶の間で、道に背を向ける形でちゃぶ台越しのテレビを見つめる老人夫婦が食事していた。外観と内側の差が珍しくて脳裏に焼き付いたけど、それがあの夫婦の当たり前なんだ。
「お疲れ様です」優しい文章だった。


ジャニーさんが感銘を受けたshow must go onの思想について太田光が熱弁していたのは確か震災や原発なんかの自然災害や人的災害が起こっただったときのように思う。違ったかもしれない。もっと最近だったようにも思う。ジャニーさんが亡くなったときか。
ただ、差別的な問題はそういうダメージとは違うし突発的に起こったものでもない。その場所にいないから分かることがたくさんある。そう思うし、そう思うべきではないとも思う。今思うことと、これまで思わなかったことの差を埋められるに足る論理を持ち合わせていないことが何かを邪魔しているような、何かを飛躍させようとしているような。
今日はBlackout Tuesdayだった。昨日Marchie Shepp『Attica Blues』を聴いたのも自分の生活のなかの一つの偶然だけど、長い時間のなかでずっとあったことだった。あまり意味がわからない。snsで連帯する効果を実感したことがないからかもしれない。ただ、みんなそれで満足はしてないはずだ。勇気のいる決断をクリアしたことはリスペクトする。
ドラえもんの話は昼休みに知ったメモした日記で、これは夜に書いている。

昨日見たラーメンズ「無類人間」というのは、無地の衣装を着た生物(ラーメンズ)二人が、哺乳類をはじめとする、ありとあらゆる類を足し引きしていくコントだった。ジェンダーや出身など、本来人間のアイデンティティの深くにあるものを容易く着脱する裏切りが面白いという仕組みである。ラーメンズのコントは「非日常の日常」だと小林がどこかで話したらしい。この1,2年、日常についての考えは変わってきた。たくさんの日記を読むようになった影響もあるとおもう。snsで見る断片ではなく、まとまった時間の生活から受け取ったものは大きかった。そのおかげか、普通という言葉にいくつもの側面があると当たり前に考えられるようになった。コントが表現する非日常の日常は恐らく、フツーじゃない人のフツーという捉え方ができるけど、普通というのは日常生活を積み重ねてきたそれぞれの個人の感覚に過ぎない。普通なんてものはなかった。

自分の類について、最初に説明したり、念頭に置いた上での態度を表明したりするような、意識化する作業。その必要性を知らないまま生きてきたことに正直でい続けなきゃいけないと思う。それは何度も思ってきた。そして、優しさの大半が知識にあるということが、ようやくわかってきた1.2年だと思う。
字幕もつけられたりして広くシェアされたあの動画を見たときにまず思ったのは、自分がもう16歳でもなければ、まだ31歳でもない、ちょうど間の年齢にあたるということで。0に近い経験だけど時間は平等なので、俺はあの場にいなかった同世代のやつと同じペースで歳を重ねる。あまり想像はできないけど事実だ。生きている人間の寿命が最新になるせいで積み重なってきた歴史というものについて、俺は受験勉強の科目としての教育しか経験していないことが心許ない。頭の中で並列された幾つかのことのうちの一つ、なんだけど。


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