2020.2.16 深夜の渋谷から。

一年以上ぶりに会う友達との飲み会はやっぱり終電を過ぎた。そんなことには全く驚かないけど、絶対に布団で寝たいという執着がこの一年で揺るぎないものになったのは予想外だ。歓迎したくない。財布に優しくない。
タクシーに乗るであろうという諦めと、少しでも安く済ませたいという欲が、夜中の東京を歩かせた。
比較的暖かい夜道を一人で歩くのは久しぶりで、大晦日はもっと寒いなか渋谷からお台場まで初日の出を求めて歩いたんだしこれくらい余裕だろ、と自分を鼓舞した。深夜三時の新宿高島屋は、さいたまスーパーアリーナみたいに巨大で静かだったけど、歌舞伎町の方は明るいままだ。いつだったかの『粋な夜電波』で、深夜三時でも歌舞伎町のケンタッキーは大行列であるという菊地成孔のエピソードを思い出した。小休憩で寄った花園神社で吸った煙草は一番まずいのに、気付いたらこの場所に来てしまう。因縁の場所であり、無くなって欲しくないオアシス。
この日は結局、珍しく節約欲が粘り強い抵抗とを見せた。アルコールに負けない体力ともいいタッグを組んだらしく、高田馬場までたどり着いた時には始発電車が動き始めていた。

歩くのはずっと好きだった。好きな文章を書く人の中でも、目的のない散歩が好きな人は多い。

歩くことは、風景と自身との、絶えず移ろう関係を何度も確かめること、そうであれば、外に広がる風景を考えることと、自分の内面をまなざすことは、表裏一体というか、作り作られる相補的な行為であって、外にのびのびと広がれば広がるほど、それに対応するように我も大きくなっていくのは当然のことなのかもしれなかった。個人的なことは、そのまま社会性や政治性を帯びるのだ。『プルーストを読む生活』p.229

神保町や丸の内らへんの石畳やアスファルトは、自分で地に足をつけて歩ている実感があるし、日本橋をくぐるときなんかは、補装される前の土だらけの道を想像する。『いだてん』のOPのようにワシワシ歩く。
でも、渋谷から山手線沿いに歩く道は、絶えず移ろうスケールを比べたときに、自分の変化なんて消滅してしまったかのような、メタボ化していく風景の変化を引き受けることなど諦めてしまうかのような気持ちになる。
それか、自分をまなざすことへの不安が、風景を見渡す気持ちを臆病にさせているのか。
確かにこの日、個人的なことを通したエンタメやインターネットとのかかわりについてほんのり逃げ出したくなった。

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